いきなりお経を唱えて始まる、違和感の変化について(テーラワーダ仏教の催し参加について)

ヴィパッサナー

いつも当ブログにご訪問頂きありがとうございます。最近は室内で暖房機を使わなくなりました。みなさんいかがお過ごしですか?

テーラワーダ仏教協会のスマナサーラ長老の講演会でも瞑想会でも、最初に、わけのわからないお経のようなものを唱えることから始まります。

「こんなはずじゃなかったのにな・・・」という違和感があります。自分は信仰心がなく、興味本位で着ただけなのに、信じてもいないのに、みんなと一緒に、信者のようにして合唱しなければならないのか?

ちょっとイヤだな・・・。

まだよくしらないお釈迦様を大そうに尊敬し慕っているような言葉。思ってもいない事を口にすることはできないような感覚。

わたくしはジャーナリスムであったり市民運動の周辺をうろついて、そのうち人間に疲れてしまって、途方に暮れている中で仏教を知りました。

ひとりひとり、世界の見方は違う。これまで当たり前だと思っていた「世界」ではなく、認識している当人の自分を知りたくなったのです。

そこから中村元先生の書籍でお釈迦様が当時実際にお話しになったことばを調べていました。でも、よくわからない。

そしてある日、スマナサーラ長老の本を勤務地のそばの書店で発見して、そこから、テーラワーダ仏教に近づきます。2010年です。

近寄ったり、離れたり。忘れたころに思い出して読み返したりの繰り返し。いまだに熱心なファンでもない。

あくまでも自己流のファン。

この2年ほどは慈しみの瞑想を日課にしています。社会人になってからの友人が2019年に亡くなって、自分も死ぬのだ!と強く思ってから、自然な流れで日課にしました。

初期仏教って最初は他の宗教と似たような宗教臭さってあります。でも、非常に論理的に現実に基づいて、人間の、宇宙の、自然の、生き物の正体が説明されてゆく。重要なのはこころの有様。

人間にとって大事で意味のあることと、どうでもよいことも語られ説明されてあります。10年前に理解できたこと、理解できなかったこと。

いま、同じ説明がより詳しく、納得感を伴って理解できている。

たとえば、法則は容赦がない。残酷だ。宇宙には法則があるのです。信じなくとも理解できなくとも、法則がすべてに働いている。コーしたことがだんだんわかってきます。

あんなに生きることに苦労してきたのに、あの時点から、生きやすくなっていると実感する。

慈しみの瞑想も、最初は続けて唱えることができませんでした。他人行儀で、自分の感情とのギャップが大きかった。

けれど、この4年ほどでずいぶんと、慈しみの瞑想への思いが変わった。

本気度、真剣度が変わった。

何ものにも疑い深い性格。

いまでは、当たり前のように、唯一、この世の真っ当な導きとして、たったひとり、礼拝し慈しみの瞑想をしています。

自分の前の方角で慈しみの瞑想、背中の方角へ、生きとし生きるものに慈しみの瞑想。頭上の方角にある生きとし生きるものに慈しみの瞑想。足の下の方角にある生きとし生きるものに慈しみの瞑想。

右側の方角にある生きとし生きるものに慈しみの瞑想。左側の方角にある方角にある生きとし生きるものに慈しみの瞑想。

教えをやってみると、続けると、すこしこころの変化があるとわかります。通勤中の電車の中のすべてのひとびとを慈しむ。

電車を降りて歩いて会社に向かう途中、人々への感情、悪感情は「妄想・妄想・妄想」とマーキングして消す。

短期間では変わらない。

無理なく、自分に正直で良いとおもいます。

今月5日の北とぴあでの瞑想会、スマナサーラ長老の法話の際の礼拝も慈しみの瞑想も、最初のころの違和感は全く無くなりました。

あたりまえのように唱えるように変わりました、自然の流れで。

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