テーラワーダ仏教協会の瞑想会に2月に参加させて頂いた時、お布施の箱があったので、セミナー会費のような感じでお金を投じました。
瞑想会は無料で参加できるので無料で問題ありません。
そんなつもりは無かったのだけれど、パテイパダーという協会の月刊紙の「お布施者ご芳名」というページに、まさかの自分の氏名の記載があって、ちょっとびっくり。
お布施者というような、掲げられるようなモノではありません、不遜で慇懃無礼で不埒な私メが、勿体ない勿体ない。
「お布施」を期待される場面って、あなたはこれまでにありましたか?
お布施は高尚なもので・・・という感じで前に立って言われると「結局お金なんかい・・」と思ったことが私にはあります。
・・学会とか・・教会とか。
クラスに必ず信者のいる・・学会に友達の誘いで参加した時に、すばらしい活動内容の紹介と教えのすばらしさが語られた後に、お布施のお話しがセットで付いてくる。
そんな時に「結局お金なんだよな・・」と思ったことを思い出します。
振り返ると、お布施ではないけれど、困っている人にお金をあげたことが何度か私にはあります。写真店で働いていた時にパートで勤めに来た女性。
家庭の事情やらで自宅を出ている、嘘ではなさそう。もう家には返らない決心をしていてお金が必要と聞いていてわかった。
たぶん、私と付き合いたかったという思いもあったのだと思ったけれど、女性のそんな気持ちに寄り添うような肝がわたくしにはありません。恋愛には感心はないし結婚とかに興味のないタイプ。
しばらく生活できるくらいの少なくはないお金だけ渡して、すぐにその女性はパートを辞めました。
マーあげたんだからしかたない、と思いつつ、時々、損したな・・・と思う事もありました。
人間関係を引き裂く手伝いをしたような部分もあるから、良い事をしたとも一概に言えません。
お布施とは違うけれど、身銭を誰かの良かれと思う事に使う、購買以外で財布を開けることに躊躇はないタイプです。でも、・・学会とか・・教会というところではお布施のようにしてお金を出したことはありません。
宗教的なことでお金を払ったことがあるのは、神社でのお祓いやお参りの賽銭にお守りの購入程度です。
瞑想会でお金を出したいと思ったのは、宗教への思いというよりも、セミナーであったり勉強会に参加するのだから、会費を支払いたい、と普通に思っただけです。
どこかのマッサージや整体にお世話になれば、2時間くらいで数千円や1万円以上かかることがある。8時間のセミナーに対しては間に合わない程度の会費でした。
テーラワーダ仏教協会のyoutubeでもスマナサーラ長老がおっしゃっていますけれど、書籍にも書かれているけれど、お布施の中で一番値打ちのあるお布施を「法施」というのだそうです。
法施というのは瞑想会のような催しを開催する活動のことです。催しのスポンサーとなって費用を持つことに限ることなく、会場を予約し、プログラムを考え、会を取り仕切る、参加者を募る。
こうしたことが最も大切で最高なお布施なんだそうです。
こうしたことは神秘的だと私は感じません。
覚者がひとりで居ても何も始まりません。
あらゆる回答を知っている人がいて、問題を抱えている人がいる。
そうした人と人をマッチングする。マッチングして同じ空間に居合わせる企てをする人っていないと、何も始まりません。
お布施をしておくと来世で食べることに苦労することがなくなるんだそうです。こうしたことを神秘的だとは私は感じません。そうなんだなーと納得するのです。
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