3年前にテーラワーダ仏教協会の稲取合宿の申し込みをして抽選に漏れました。当時は会員になっていませんでしたから、抽選に漏れた原因を「非会員」だったことにあるのでは?と推測していました。
2023年の10月の稲取合宿は幸運にも休日の予定が合い、リベンジのようにして申し込みました。会員になっているからか不明ですが、すんなり参加枠に入ることができました。
全行程6日間のうち3日参加した感想を記します。
- 参加人数は90人程度、徹底的な無言行です。
- ロッジは2階があって定員6名程度の広い部屋を3人で利用しました。
- 17時から法話が3時間。参加者には録音データが後日送られてきました。
- 最終日の1時間程度、テニスコートで歩く瞑想ができました。
- 読経経典をすべて暗記している人に刺激を受ける。
- 高尚で清らかな雰囲気というより生な雰囲気。(個人的感想です)
- 自主瞑想会に意義はあるのか? 合宿する意味はあるのか?
- これまでのどのような宿泊とも合宿とも違います。
- 今回の参加者のうち初めて参加したひとは数人でした。
- 大きな進展を自覚していません。
- 自分の妄想に気づくようには感じています。
- 母性社会の日本にあって父性が強いから信頼できる。(個人的な感想です)
- ちょっとした体験。
参加人数は90人程度、徹底的な無言行です。

夕方からのスマサナーラ長老の法話以外で人の会話はありません。合宿での決まり事。ソレを破るひとはいません。目を合わせることもお辞儀することも禁止。常に自己観察する修行の合宿です。
年齢層は20代から70代という感じ。男女比は若干女性が多い印象。食事は朝食と昼食のみですべて弁当。そのお弁当も食事の瞑想をしながらゆっくりと食べます。
弁当は精進料理ではなくって肉なども入っているので食事にこだわりがあると参加できません。この機会にこだわりを捨てる、人生方針を一大転換されるのも良いでしょう。普通にお弁当屋さんで販売している弁当と同じです。
豪華な弁当ではなく、粗末でもない。ごく普通のお弁当にサラダとお茶がつきます。夕食がないことが事前での不安でした。けれど、夜から朝までの空腹感はわたくしの場合はありませんでした。
せんべいなどのお菓子がおかれていて自由に食べることができます。夕方の法話は3時間程度で21時過ぎに終了し22時に就寝。23時だったかもしれません。
24時間瞑想できる室があります。わたくしは使用しませんでしたから詳細はわかりません。禅定が進むと眠らずに瞑想する行程があるようです。
阿羅漢になられると睡眠しないと聞いたことがあります。コーした世界があるのです。個室の宿泊が可能ですが追加料金がかかります。全日参加するひとが個室宿泊を優先的に予約できるシステムです。
わたくしは個室を希望しましたが、途中までしか合宿に参加しなかったために、個室宿泊枠からもれました。
それでも、ホボ快適に合宿生活をおくることはできたと思っています。
ロッジは2階があって定員6名程度の広い部屋を3人で利用しました。

わたくしが宿泊したロッジは広めのリビングと4つのベッドがあるベッドスペースが1階。2階にはベッド2つ。
わたくしは2階を独占使用させていただき、2階で食事も就寝も歩く瞑想も座る瞑想もしました。ホントの孤独行。
ほかの2人はロッジではなく共用瞑想室で瞑想していたようでロッジには休憩しに帰る、というような感じでした。
1階のリビングのソファーとテーブルはわきに置いて瞑想スペースを作って自由に瞑想します。貸し切りの施設全体には、このほかに瞑想する共用部屋が2つあったようです。
わたくしは、ひたすらロッジ2階で周囲に人気のない、ひとりの時間に集中して歩く瞑想を主に実践しました。
トイレは2つでシャワー室が1室。わたくしは風呂に入りませんでしたがホール棟に浴場があります。そのロッジには、20代から30代と推測される男性2名と60代のわたくしの3人で利用しました。
最初に簡単に挨拶をし、わたくしは「4日目に帰ります・・・」と途中退室することを伝えました。その最初のコンタクト以外で会話も目を合わせることも会釈も挨拶も一切しません。ソレが合宿の決まりになっており忠実に従いました。
自己観察する瞑想修行に徹底的に集中するために。
17時から法話が3時間。参加者には録音データが後日送られてきました。

わたくしは6日間の合宿全行程中で3日だけ参加しました。3日のみ、4日のみの参加はできますが、初日からの参加が必須です。2日目からや3日目から等の途中参加はできません。
初日は瞑想する時間はあまりありません。初日の昼食のみ自分で用意する必要もあります。わたくしは食中毒を極力避けるために朝おにぎりを作って持参しました。
前日から宿泊を希望して宿泊することもできます。遠方から移動する場合、万全の体制で瞑想に集中できそうですね。合宿終了後に熱海の道場で引き続き宿泊しながら瞑想することもできるようです。
初日はオリエンテーリングと長老の法話が夕方まであります。その後初心者指導があります。
なので、瞑想する時間があまりありません。3日というよりホボ2日の瞑想合宿になってしまったことが、わたくしの中での想定外な出来事でした。
わたくしは初心者指導を受けずに、(すでに初心者指導を受講済みのため)初日の夕方から孤独な自己観察をロッジの2階でしました。
もちろん、初心者指導を受けたことがあるかたでもスマナサーラ長老による初心者指導を自由に受けることができます。
2日以降からは、朝5時に読経と30分程度の座る瞑想。17時から読経と瞑想と長老の法話があります。参加は自由となっていますが、みなさん参加されているようでした。
わたくしは腰に椎間板ヘルニアがあり、首には脊柱管狭窄症があります。座布団に座って法話を3時間聞くにも、腰などの痛みばかりで内容を聞く集中力がでません。
3日目からは方針を変えて、読経と法話には参加せず、瞑想をひとりで実践しました。最終日、帰宅する4日目の朝は朝の読経に参加しました。
幸い、瞑想合宿後に法話の録音データが送られました。予期していないうれしい気遣いです。
当日聞いた分と他日の聞けなかった長老の法話を何度も何度も繰り返し再生して聞くことができました、感謝。(データは1週間限定で利用可能です)
最終日の1時間程度、テニスコートで歩く瞑想ができました。
全行程が6日あるので、ス-ツケースで着替えを持参することになります。わたくしは4日午前に途中退去しましたが、3日であっても、洗濯は禁止なので着替えを多く持参することになります。
4日目に送迎バスで合宿を後にしたひとがもうひとりいました。途中参加者の総数は不明ですが、ほんのわずかでしょう。
屋外で自由に瞑想することができます。予定としては屋外で外の空気を吸いながら瞑想したい期待がありました。
けれど、ホボ雨天だったので最終日の送迎バスの時間までの1時間程度だけ、晴れ間があったチャンスにテニスコートを歩きました。気持ちがよかったですね。
ロッジから弁当を取りに行くときに歩道で参加者に出くわします。ゆっくりと瞑想しながら歩くひと。テーブルに置いてある弁当をとる所作でも瞑想しているひと。
ほとんどの参加者は手抜かりなく瞑想に集中されていました。
自分の体の感覚に集中して観察しようとすると、どうしてもスローモーションになるのです。24時間スローモーションで観察実践できる機会はたぶん、ご自宅とこの瞑想合宿以外ありません。
スーパーの総菜コーナーでスローモーションで弁当をとるということはできないですしね。公園でスローモーションの観察瞑想をしたことはありません。
敷地内すべての施設は貸し切りされているので、合宿者以外には施設の運営スタッフのみ。こうした瞑想が気兼ねなくできる環境は他にないでしょうか。
なので、24時間ずっと、気兼ねなく自由に瞑想に集中できるのです。
読経経典をすべて暗記している人に刺激を受ける。

会話しないし目線を合わせない。挨拶、会釈をしない。瞑想合宿での最低限の決まり。もちろん、五戒を守ります。アルコール禁止。読書も禁止。音楽鑑賞もスマフォ鑑賞も禁止です。まじめで誠実なかたのための合宿です。
とはいえ、参加者から刺激を受けないことはありません。王子の北とぴあで自主瞑想会を主催しリーダーとなっている方が法話の会場で遠目で発見できました。きりっとした力強い眼力。
長老を挟んだ向こう側から集中して法話を聞いている女性の目がさえているとわかる。
ホボしらない方々ばかりですけれど、全員会員なのでしょう。読経法話会では、隣の男性が経典を暗記して諳んじている。
わたくしは、慈しみの瞑想は毎日実践し経典はさわりだけでその後瞑想するのが自分の瞑想法でした。経典を覚えよう!という刺激を受けました。
テーラワーダの経典は声を出す、黙読するだけでも真理の本質の言葉とわかるので、暗記して諳んじているかたから刺激を受けました。
テーラワーダ仏教の経典はほかの宗派の経典と違います。清らかなこころに導く言葉。理性的に真理へいざなう言葉。
ソコに神秘や無駄な難解さはありません。真理とはこういうものだ、ということを知性ではない素直なこころに定着してくれます。
高尚で清らかな雰囲気というより生な雰囲気。(個人的感想です)
個人的なイメージ・先入観でした。
瞑想修行するひとびとなので、高貴な雰囲気で場の心地よい空気感がある。そのような、なんとなくのイメージ、先入観の希望がありました。
合宿中で感じた感想の実際は、非常に泥臭い感じ。装飾された美化されたものが一切ない感覚。長老の法話中の笑えるお話しでは笑いが起こる。
ソコ以外は素顔の生の人間が座っています。
まったく清清しくはない。ハイランクの上質な雰囲気、というものがない。上品であり、にこやかで、という情緒的なものがありません。むしろ、人として当たり前にある生臭さのようなものがある。
表情のない、顔のある銅像が人間化して息をしているような存在感。その存在を感じているわたくしの感覚。
表面的は飾りが一切ない感じ。一体感は一切なし。みんなでつながって・・・という催しのようなものではありません。ひとり静かに、な、おひとりおひとりがあるだけ。
「高貴な雰囲気で心地よい空気感がある。ハイランクの上質な雰囲気。上品であり、にこやか・・・」といった無意識で描いてしまっていた希望や期待が「ない」とわかる。
例えると、目標に向かって鍛錬するアスリートのような、忍耐し続ける表情ばかりのようにわたくしには感じました。マラソン選手が強化合宿で鍛錬に耐えている。そんな表情にどこか似ている。
ただ観察瞑想している生の普通なひとりひとりだけがある。
わたくしが観察瞑想した中で周囲を体感し感じたのは、ただ、普通のひとが泥臭い、生な自分という生き物を感じているだけなのだ、という感覚です。瞑想合宿で到達したわたくしの感覚。
自主瞑想会に意義はあるのか? 合宿する意味はあるのか?
1年前であれば、本心では、自主瞑想会も合宿も意味はすくないと考えていました。ひとりで瞑想するだけで自己観察は完結できると錯覚していたからです。
ひとりで集中することができるから、だれかとつるんでする意味がわからなかったのです。自主瞑想会に意義は少ないし合宿も大きな意味はないだろうと考えてきました。
ソノ感覚が今年変わりました。
北とぴあの自主瞑想会で、「ひとりでは得られない集中力が増している・・・」と感じたし、その理由は、同じ室内で瞑想実践している人々の波動に共振しているからだと推測しています。
すこし雑念があって「集中できなそうだな・・・」と思いながら参加した北とぴあの自主瞑想会で、驚くほど集中できた体験があるのです。
この感覚は妄想ではないとおもいます。
コレは頭の中の幻想ではなく、あたらじめの希望・期待があったから味わった感覚でもないと自己観察しています。
ひとりで十分集中できて自己観察できる人であっても、自主瞑想会や合宿に参加されてみると、たぶん、おひとりで得られないような体験をできる可能性がある。集中力が高まることでしょう。
図らずも、慈しみのこころのエネルギーは共鳴・共振するようになっているのかもしれません。そんなもの全然期待していないけれども。
今回の合宿で大きな変化の自覚はこれまで同様にまったくありません。大きくこころが落ち着いてきたといったこともありません。自覚的にはわからない。
得た集中力でまた帰ってひとりで集中する。本人にもわからないホントの意義は、受けた刺激はソコにあるのでしょうね。
スマフォのタイマーでもよいですが、小さな置時計があると瞑想の区切りタイムを知るために便利だとおもいます。
瞑想は慣れないうちは、2時間、3時間ぶっ通しでするよりも、1時間単位を休憩をはさんで2回目、3回目と実践するほうが良いと個人的には感じます。
調子が良いからと2時間歩く瞑想をした時に、反動で強烈な眠気・睡魔を感じた体験があるからです。個人差はあるでしょうけれど、一歩一歩上達するということでよいのだと考えています。
これまでのどのような宿泊とも合宿とも違います。
お仕事を持って働く人が連休を取って、行楽ではない、部活ではない、旅行ではない、骨休みでも英気を養うでもない、苦しみの伴う、刺激を取っ払う瞑想合宿に参加する。
まったく瞑想したことのない人が、いきなり会員になって参加するとどうなるのか?
「行楽ではない、部活ではない、旅行ではない、骨休みでも英気を養うでもない、苦しみの伴う、刺激を取っ払う瞑想合宿に参加する。」のだと知っておく。覚悟して臨むのが良いでしょう。
真剣なひとばかりの中で生活する。
ソレに耐えられる精神力のあるひとであれば、得るものはあるでしょう。不用意に参加すると失敗して二度と近づかない、ということになるでしょうか?
個人的な感想ですが、出家の入り口。在家でありながら、出家者の真似をすること。そうした合宿です。
瞑想を続けて何か自分で解決できない深い深い修行途上で湧き出た質問のある方がプライベートに質問する機会を得ることができます。主旨はココにある。
わたくしはまったく質問するレベルにはないので、質問者がどのような質問をしているのかを想像することもできません。たぶん、禅定の行程でのなにがしかの障害を乗り越えるべく質問するのでしょう。
悟るためには出家をして指導者に従う必要が必ずあります。ご自身の忍耐・堪忍の程度をこの合宿での手応えで自覚する。
試験のように臨むこともできるでしょうか?
今回の参加者のうち初めて参加したひとは数人でした。
初日の長老のアンケートで、瞑想合宿がはじめてのかたがたが挙手しました。わたくしの後ろは知りませんがほんの数人程度だったとおもいます。
スマナサーラ長老のお話しを書籍やyoutube動画などで拝読・拝聴させていただき、わたくしが感じることは、在家でもよいから預流果に達することを目指すべきだ、ということ。
最初の禅定が預流果であり、やがて自動的に悟ることができる。
わたくしは、テーラワーダ仏教の会員になったのは一昨年からです。ヴィパッサナー瞑想を知り、自己流ではじめて13年程度。
まったく瞑想をしなかった時期もあるし、休日には毎日のようにyoutubeでスマナサーラ長老の法話やQAを聞きながら過ごしていた時期もあります。
この何年は慈しみの瞑想だけは毎日実践している、という程度です。
自主瞑想会には今年初めて参加させて頂きました。今回の合宿を簡単に総括すると、無理なく、でも苦しみながら自己観察を自分に強制して過ごすことができたと感じています。
大きな進展を自覚していません。
また瞑想合宿に参加したいと考えています。とはいえ、これまでの生活を一変させ出家したいとは考えていません。すべきことがあるのです。生活のすべてを瞑想中心で回すことは考えていません。
これまで同様に仕事や家族をみる生活が中心です。人生に執着心はないつもりですが、施設にお世話になっている寝たきりの母をサポートすることなどわたくしの人生の課題に優先事項はあります。
瞑想第一主義ではないけれど、これまでの生活の延長線であっても、発想を変えて、「ソノ時間がムダ」というようにして、ソコに瞑想実践を取り込む工夫はできる。
できることがまだまだあるように感じています。日常の執着のアレコレを感じるようになりました。忍耐・堪忍の程度が甘いとわかりました。
自分の妄想に気づくようには感じています。
決して楽しくって和気あいあいとして、達成感・充実感を感じられる合宿ではありません。(個人的は感想です)修行ってつらいです。だって、痛みに耐えながら、座り続けるのですからね。
思考しないで60分歩く瞑想をすることは、ルンルン気分でできるものでもありません。楽しくありません。必死に食らいつくエネルギーが必要です。
感情をなくすことは、安らぎを得られるけれど、修行は、瞑想は、惰眠をむさぼる弱いこころに鞭を打ち、自分を強制的に修行へ導くつらさがあるのです。
のんびりとソファーに寝転がり、好きな本を読んだり、パソコンを気ままにサーフィンしたり、テレビや映画を見ることに比べると、決してラクではない。
合宿中に、瞑想合宿への違和感を個人的に自覚していました。「こんなことで何になるのだろうか?何もないのでは?」という不信感という違和感がありました。
自分で気づいていました。持病からくる体の痛みに耐えかねていたのかもしれません。さんざん堕落した生活を続けてきた自分を長老に見透かされ、あきれられているような感覚もありました。
自己嫌悪感。
母性社会の日本にあって父性が強いから信頼できる。(個人的な感想です)
母性社会や父性社会と言われてもわからないでしょうか?
日本は母性社会で病んでいると昭和のころに言われていました。その母性は日本特有の病理だったと言ったのは、ユング学派の臨床心理学者でのちに文化庁長官を務めていた河合隼雄さんです。
平成時代にリストラという言葉が生まれて流行り、幾分日本は父性化したでしょうけれど、わたくしは日本人は母性から抜け出せていないと思っています。
叱る父は流行らない。
わたくしは、父性寄りな人間です。なので日本人でありながら、日本特有の母性に馴染めず生きてきました。
スマナサーラ長老は、言動が端的で時に厳しい。父性がある方です。だから、わたくしは興味を持ちひかれたのだと自覚しています。
同じように初期仏教を語られていても、誰にでも受け入れやすい、優しい母性の人であったならば、これほど興味を惹かれることはなかっただろうと思います。
裏返しで、日本人は母性の人々が多いので、父性性によって伝播のされかたは芳しくはないことでしょう。人気度は母性の指導者のほうが高まったでしようか。
ちょっとした体験。
施設全体が貸し切りでの合宿。わたくしが宿泊していたロッジは敷地内の中央側で長老の部屋は北の端でした。
わたくしが、ホールからロッジに向かい歩道から曲がってロッジの玄関に向かう瞬間、スマナサーラ長老が奥から角を曲がってわたくしだけに見えるようにしてこちらに歩いてこられる姿を一瞬拝見しました。
法話会場も食事の用でも別の道が近いから、こちらをわざわざ歩かれる必要はないだろうに、と思いました。
ただ、ほんの瞬間だけスマナサーラ長老がこちらを振り向く表情が横目に映りました。これまで1度もお話ししたことはありません。
わたくしの妄想なのかもしれませんが、その長老の表情が印象に残りました。
険しいわけではないけれど、険しい。勇猛果敢でエネルギーに満ちあふれている。これまでyoutubeでも月例法話会でも瞑想会でも見たことがない表情に見えたのです。
颯爽と急いで勢いよく歩いていらっしゃる。
何かに立ち向かっている。勇猛果敢に挑んでいる。辛さはないけれど、険しくはないけれど険しさのある表情。
もしかすると、わたくしへ向けた何かだったとおもうのです。コー歩め、というようにどうしても感ずるのです、今振り返っても。
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