デイレクターの視点で観察する

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テーラワーダ仏教協会から毎月送られてくる会報”パティパダー”が昨日投函されており今朝少し読みました。

「一般的に私たちは、情報を誰かに指示された通りに処理して、操られるように心を汚しているのです。」とスマナサーラ長老は書かれていました。

映画を例にすると、映画監督は脚本から配役から演技指導、音楽、カット割りなどの全ての手法を動員しながら、観客を泣かせるようにと意図して映画は制作され、「泣かされる映画ですよ」と宣伝され、観客はその狙い通りに、映画を見て涙してしまう。

撮影現場の様子の1つ1つ、例えば、演技指導と俳優の演技での表情の作り方、美術舞台の仕事の一部始終。

こうしたバックグラウンドまでをも俯瞰したならば、同じシーンを映画館で見ても、みんなと同じように単純に「泣ける」気持ちにはならないハズなのです、とスマナサーラ長老は書いていました。

つまり、ディレクターの視点で物事を観察すると、製作者側の苦労や努力が良くわかり、心の汚れが減って理解力が現れるのです、とおっしゃります。

この文章を今朝読んでいて思い出したのは、下北沢の本多劇場だったかである女優さん主宰の演劇を見に行った時の事。

まだ、私は初期仏教を知らなく、非常に閉じこもった生活をしていました。

20年前の事です。戦争に反対する演劇の有志が首相官邸に抗議に行った。すると周りのスタッフから「そんなことやめてください。」と反対された、という様々なことをテレビで打ち明けるその女優に興味があった。

主演の俳優さんも嘗て私がアイヌ差別に興味をもっていたので、他の俳優へのまなざしとは違い興味があった。当時の私は引きこもり。ホボ外出していないけれど、その演劇には行きたいと強く思っていた。

重い腰を上げてホボ初めての下北沢、全く初めての本多劇場。当時の私にとっては、恥ずかしながら、めまいがしそうなほどの冒険。すると最前列。

前のお話しに戻ると、私の場合は、勝手な妄想をぐるぐると回していただけです。

演技が始まると、ストーリーに入り込めない。

「稽古はどんなだっただろうか?」とか「舞台袖ではどんな気分で準備しているのだろうか?」やら「昨日の夜はどんな心境だったんだろうか?」といったことを演者の表情から読み取ろうとしている自分を発見していました。

どうしても演技で見せたい意図した作りものよりも、役者そのもののリアルな現実に注意が向く。相当に変った観客だったと振り返ります。演者の心の内ばかりに興味がありました。

話しが変わります。大学を卒業して、社会人になってから本を多読するようになっていました。「巨大犯罪は合法的に行われている・・・」というあるジャーナリストの1文。

法律学科の学士であった私は、「この人は合法と違法の違いがわかっていないのかな?」というのが最初の印象。

なぜならば、合法という事は犯罪にはならないからです。

ソコから俯瞰した視点のジャーナリスム書籍を読むうちにある時、雷に打たれたような衝撃で咄嗟にわかった。衝撃でした。

最初の印象とは全く違って、言葉の本意が理解できた瞬間というものがあった。法律を俯瞰して理解できたのだと思います。

小さな犯罪ならば犯罪者になっても大きなソレはスルーされる、そうした構造がある。

昨日も今日も・・・。涙ではなく別な何かの感情・・・。

今回の戦争では日本も不況になるようなので、しっかり覚悟しているところです。

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