いつもご訪問いただきありがとうございます。みなさんいかがお過ごしですか? わたくしはこの12月25日のクリスマスに仏教の瞑想会に参加します。
エー、世間・世界がキリスト教の文化の大イベントのさ中に反旗を翻して?仏教にいそしむのです。
12時間ぶっ続けで脳の大外科手術をします。するようにして瞑想したいとおもっています。この数年、50歳後半あたりからこんなことを考えることがあります。
「20歳のころ、自由闊達に楽しく過ごして、将来について意見を交わした学生時代、思い描いていた自分の未来ってちっぽけだったな!いまの自分を20歳の自分が垣間見たら、オッたまげるよな!」と。
あなたは、コーしたことを考えてみたとき、いまのあなたをどのように感じますか?
ハタチのころの自分がいたとして、いまのあなたをどうおもうだろうか?
成功? 失敗?
常に考え、やりたいことをしてきた結果、真理を知ることができた。いまの私はソー思っています。一番近づきたかったモノに出会えた。
これほどうれしいことはありません。
20代のころはキリスト教に興味関心がありました。
キリスト教で言われている「原罪」というものがある。でも明確に定義はされていない。なので、「原罪って何だろうか?」と考え感じようとしていました。
皮肉なことに、ムスリムと自称するジャーナリストの本多勝一さんの本を読んできたときに、突然雷に打たれたようにして自分なりの「原罪」がわかったような気がします。
社会を俯瞰してみることで、まったく新しい見方があることを知った。でも、真理はわからない。なので、事実を知ろうとします。
30代前半に変革が起こります。自己変革。
世界のさまざまな現象や問題がある、その対象ではなく、ソー感じる内なる自分。コソにこそ解決すべき主体がある、と思考が反転しました。
40代は生きることだけで精一杯。まったく思索する時間はなく食べること、社会で生き抜くことだけに必死でした。でも、そこで感じたことが50代につながってゆきました。苦しんだから味わったことがあった。
そして、50歳になる前に初期仏教に出会います。
本で知った。衝撃。職場のすぐそこにあった。でも時間が合わない。
仕事の都合でゴータミー精舎で開催している瞑想会に参加する機会はなく、やっと9年程前に、瞑想会に参加しました。
その時もクリスマスだった。
40人ほどが集まっていました。スマナサーラ長老がどのようなお方なのか、自分の方法で観察すると、まったくわからない。引っ掛かりがない。
ソーしているとそのうち、法話の中で「世界のひとびとは殺されますからね・・・」と言われてこちらを向かれた瞬間に、悲しみのかたまりだけになって、嗚咽号泣している自分がありました。
なぜ?
そうだったのか?
今年の瞑想会でそれとなく、でもしっかりとご回答を得ました。
初期仏教の経典は、これまでに知った経典やお題目とは明らかに違います。
「今すべき事に促されてゆく。」
チカラがある。過去のものではないエネルギーが確かにある。
おもえばわたくしの人生も、初期仏教の経典のようにして、いまから未来へ促されるようにながれてゆきました。
変化を受け入れる、受け入れざる負えない。
ハタチのわたくしが2022年のわたくしを知ったならば、オッたまげるでしょう。
なぜならば、想像もつかないところまでたどり着いているからです。
いま考え認識できていることがきっと理解できない。なので良い人生でも悪い人生でもなく、ただ、「何をしているの?」と疑問に思っているだけなのでしょうね。
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