ブッダの贈り物 3

ヴィパッサナー

テーラワーダ仏教協会の瞑想会に久しぶりに参加させて頂いた内容を綴っています。

90分程度の昼休憩の後、今度は初心者のための瞑想指導の部屋へ。人数は40名程だったと思います。瞑想の方法の授業だと思っていたのですが、引き続きご法話から始まります。

法話の導入部分をあまり覚えていません。長老は、人の名前を憶えていないけれど、どこで会ったどのような心の人であったのかはしっかり忘れない、ということをどこかでお話しされているのを聞いたことがあります。

午後の部屋では、右側の前から3列目に座っていた私を終始長老が見ていてくださるのを感じていました。

今回答えを得たいという何ものもなく、ただ、瞑想の仕方のアドバイスを頂きたい思いで私は参加しています。

じつは、数年前に、「世界では人が殺されていますね・・・」と言われて私の方を少し見られた瞬間に、悲しみの塊となってしまって、期せずして号泣していた自分があった、という体験をしています。

あれは何だったのか?

「誤ったものの見方がある。」という事をわからせるために、そうして見せた、と長老からメッセージを頂きました。

私が質問をして、そのように回答を頂いたのではありません。

でも、お話の流れと展開から、私にわかるようにお伝え頂きました。心の中で「わかりました。」とお伝えすると、「わかったか。」という返答も確かに頂いています。

無言なんですけれどね。

人間には破れない解けない認識がある。

親子がいます。その子は親の事を「私のお父さん」という。その父の弟は、その兄を「お兄さん」という。親はその人を「私の息子」という。

どれも正解だが、すべて違った関係で認識する。誰も間違ていないが、「お父さん」という関係の子と「お兄さん」という弟と、「私の息子」という親には、違ったその人の関わりがある。

同じ人ひとりがいるだけなのに、認識の仕方はバラバラ。

こうしたたとえで、私の認識が自分自身を苦しめている、という事を悟らせるために、何かのエネルギーで私は数年前の瞑想会で号泣したのです。

人間はみな不完全な存在です。

私たちにできることは、トラブルを起こさないことだけです。

トラブルを起こさないようにするには、どうするのが良いか?

と現実の社会生活の場面で仏教的に考えながら実践する。管轄外の自分ではどうしようもない事で思い煩う必要は全くない。私の場合であれば、日本から遠い異国での残酷な紛争。

以上が、瞑想会での私の感じた感想とご法話と私の得た回答でした。

アルボムッレ・スマナサーラ長老は、ご法話の途中やこれからお話しを始める前に、静かに何かをためて居ることがあります。時々じっとして考えているようにお見受けする時がある。

何をしているのかはわかりません。

思考回路=OS(私は原始脳でしかわからないが、正覚者は大脳を使っていますから)が全く違うのですから、私には想像できない。

なので、全くの主観的な感想ですが、たぶん、参加者のすべての方々の心の中を見て、問題を認識し、その答えとなる仏典を調べていらっしゃる。

そして、どのような性格で認識力があって、という分析を終えて、お話しの組み立てをされている。たぶん、そのような事を瞬時にされているように感じました。

ホントは別次元であって、私の拙い感性による認識は間違っているんでしょうけれど。聖徳太子は何人もの人のいう事を同時に理解した、といったことを小学生の頃に日本の歴史で習ったことを思い出しました。

現実に、派手ではなく、その能力を宣伝するでもなく、もっとすごい事をされているのだと思います。修行中には、物質化ということもする、ということもさりげなくお話しされていました。

「地水火風をしっているんですからね。」と数年前のご法話で長老はおっしゃっていました。地水火風の原理を比丘たちは学ぶのでしょう。

錯覚ではなく、今回は私の方ばかりを長老は見ていらした印象があります。とってもおやさしく、にこやかでいつも笑っている。理由はわかりません。

スマナサーラ長老は怒る、という印象をお持ちの方がいますけれど、私は1度も怒っていると感じたことはありません。

日本人が怒ったように感じる。それは、日本の文化に閉じた感情だと私は思います。大きな声で話しをしている海外からの人を見ると、ケンカをしているように日本人の多くは感じることでしょう。

でも、文化が違って、彼らは怒っていない。

スマナサーラ長老は怒っていません、全身全霊でエネルギーを送ってくれているように私には感ずるのです。つづきます。

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