信仰に依らない仏教

ヴィパッサナー

宗教なのに信仰しない、というとおかしいですよね。そんな宗教はホボないからです。日本の仏教でも信者さんや檀家さんがいて信仰者がいますし。

私は仏教研究家でも出家者でもないし、普通のサラリーマンです。けれど、ブッダがブッダの教えを確かめなさい、と人々に語ったことは知っています。

検証して、テストしてみて間違いを探してみれば?と言っている。このような教えはたぶん、他にありません。

私は幼稚園がキリスト教系だったので卒園の記念に新約聖書を頂きました。なので、聖書は読んだことがあります。

大学では法律学科生でしたけれど、聖書も読みました。日本とは関係が無いような歴史と物語。よくわからないし、誰が誰に対して語っているのかもよくわからない。

けれど、東大の学長であった矢内原忠雄さんの書籍の山上の垂訓などは感動しながら読んだことを思い出します。

キリスト教の布教をしているモルモン教徒に誘われて彼らの話しを聞き、興味を持って調べた事もあります。

確か、プロレスラーのジャイアント馬場さんもモルモン教と接点があったと思います。USAの学生が来日して布教活動をしている。

航空事故で亡くなったという布教活動の友人の写真を見せられたり、将棋を指したり。それでもいつしか自然に疎遠になりました。

その他にも、いくつかの宗教の支部へ足を運んでみる。結局は、宗教が分派することが納得できない。

純粋培養されて分派されさらに純度が高まるというよりも、経年劣化するようにして、人の利害関係や濁度が嵩み宗教は分派分裂するのだと考えていました。

キリスト教には魅力がある。でも、教会に集う意義を感じませんでした。なぜならば、死はひとりで対峙しなければならないし、神ともひとりで向き合うことが、本当のところだと思っていたからです。

群れると良く理解できる、ということはありません。雰囲気や人々との繋がりで得る安心感と教えの信ぴょう性は別ものだとわかっていた。

本物の教えを信じているんではない。

様々な宗教の信者さんにお会いしてお話しても自ら信者にならなかったのは、信ぴょう性が不足している、と検証した結果判断したからです。

必要性を感じなかった。そうした情緒の方が大きかったかもしれません。

クラスに必ず信者のいるあの宗教も、大学時代に誘われて行ったことがあります。熱心に誘われる、選挙の前に電話がくる。

仏教本来の教えが語られていたのではありませんでした。

初期仏教が面白いのは、何も信じていてもいなくとも、やってみると、トラブルが減りますよ!という考え方にあります。

キリスト教の方が長老の瞑想指導を受けてその結果について対話している本があります。

有名で人気のある心理学者の先生よりも、ずっと精密に人間心理がわかっている。どのような状況の人でもやっていると結果が出る。

集中力がいつの間にかつく。余計な事を考えなくなる。

知らぬ間に、スイスイ仕事が捗ってしまう。私はそうした体験者です。

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