いつも当ブログにご訪問頂きありがとうございます。みなさんいかがお過ごしでしょうか?
新聞やニュースを良く読んだり見ますか?
わたくしは、20代のバブル経済の頃に他国の戦争報道の新聞をスクラップしたり、横浜事件関連の本を浦和図書館で読んでいるような若者でした。
けれど、20年くらい前からホボ新聞は読まなくなりました。怠惰だったり時間がないという理由ではなく、読む価値がない、新聞が変わってしまった、と思ったからです。
岸田さんが政権をになってからバッシングのようなネットニュースに遭遇していますが、わたくしは近年稀に見るイイ首相だとおもっています。
野放しで規制しない感じが、期せずして日本のいろいろを活発にしている。メディアも検察庁なども元気を取り戻しているようネ、と眺めています。
中国でのデモなんかは、中国当局の規制が緩んでいるから、自由度がすこし増したからコソ見れているんで、悪くない。内輪揉めを見せるよう変わったのかな?という見方をしています。
おかしなニュース、分裂していないか?
と最近感じるのは、棒英非の増額とSDGsってベクトルが真逆なんだよね!ということ。地球感今日にもっとも悪いのは、線荘ですしね。
SDGsって謳ってるだけでホンキじゃないのバレバレって、気づきませんか?
彼かは自分が正しいと思っているからしているんで、仕方ないけれど、乗っかるわけにはいかないですね。
では、本題。
この数日思っていることが、「前にも後ろにも何もないかもしれない。」ということです。未来とか過去のこと。
あると思ってますよね。わたくしも思ってます。
でも、「ちがうんじゃないか?」とすこし感覚的に感じるトコがある。
昨日も今日も同じ電車に乗って出勤して、同じ職場で同じ仕事をした。というふうに普通はおもう。けれど、ホントですか?
すこしわかりやすく言うと、目から差し込む光は明らかに違います。天気も違うし、通勤途中の周囲の人もちがうし、駅までに歩道を歩いているときに横の車道を通る車が違う。
ソコが違うと、目から差し込む光は明らかに違います。「光景」というとわかりやすいけれど、物理的には「光」ですよね。
同じ光って全くない。
パソコンに向かってブログを書いていると同じようなことをしていると思うものだけれど、明らかに違います。簡単。
だって、この文章を昨日書いていません。
違う文章なんで、わたくしの目に差し込む光は明らかに違います。液晶の光は同じ、と雑な考え方をしてはいけません。あなたの目に差し込む光は明らかに違います。「あ」と「た」というように、文字が違えば、眼球に映る文字が違うんで、目から差し込む光は明らかに違います。
なんで? こんなことを気づけたのか?
テーラワーダ仏教協会の月刊紙Patipadaでアルボムッレ・スマナサーラ長老の「ネットワークで成り立つことを知らない」という節を読んだからです。以下抜粋します。
「たとえば、わたくしのこころには見る力があります。しかし、ネットワークが成り立たないかぎり、見ることはできないのです。
目とその対象にさまざまなネットワークが通っていなければ、”見えた”という”眼識”は生まれません。
それは、『私が見る』という単純な作業ではないのです。・・・
気に入った花をみているとしましょう。その場合は、この花ならいつまでも見ても飽きないのだ、という考えが起きるのです。
この考えは、妄想であって錯覚なのです。”私が見る”ということは成り立ちません。感じる能力がある”目”という組織があります。
目はさまざまな原因が揃って現れた臓器です。その目が光りを感じる。光とは、瞬間に消える電磁波、または光子です。
無数の光子が目に触れて、消えてゆきます。
それに合わせて、目の感覚も消えてゆきます。それに合わせて、”見えた”という気持ちを惹き起こす眼識も流れて消えてゆく。
そこに、『私は見ている』という固定して変わらない認識はありません。さらに、光子が当たるたびに、目の構成が変わります。
どのように変わったのか、という情報を脳で計算して、画像を組み立てます。一秒間にどれくらいの光子が目に触れることでしょうか?
そのたびに、目に変化が起きて、そのたびに組み立てる画像も変わるのです。たくさんの画像が作られますが、それはほとんど同じに見えるほど似ているので、『同じものを見ている』『同じ私が見ている』という錯覚が起こってしまう。
実際には『私が見ている』という事は成り立たないのです。」
ココからはわたくしの推論。
ヴィパッサナー瞑想をしていないとまったくわからないかもしれない。でも、最先端の科学者でもわからない、俗世間では知れない、おそろしいほどの細密な事実を巧みに解説してくださっていることがわかります。
人間は後戻りの決してできない一方通行を生きている。後ろには何もなく、前にも何もない。そんな感覚が少しわかる。
すると理論的には過去も未来もないことになるのです。
20代のバブル経済の頃に他国の戦争報道の新聞をスクラップしていたわたくしは、いまのわたくしでは全くない。すでに消えていないのです。
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