いつも当ブログにご訪問頂きありがとうございます。しなければならないことと、したい事がたくさんある日々で、毎日瞑想しようと努めています。
どんなくらい瞑想しているんだろう?
と先月、スマフォのカレンダーを「瞑想」で検索すると、月に数日しかヒットしませんでした。実際には毎週、平日かならず瞑想をしていたけれど記録をとっていませんでした。
で、先月下旬からスマフォのカレンダーに必ずし終えた修行内容を記録するように変えました。なぜ?頻度を上げて修行したくなったのか?
自主瞑想会のスタッフから送られてくるメールの内容に触発されました。日々のトレーニング、自主トレの成果を確認するような感覚で自主瞑想会に参加すると良い、という内容。
もちろん、スマナサーラ長老のYouTubeでのお言葉や著書の1つ1つのことばが刺さります。もっとも優先度が高いのが、瞑想修行であるにも関わらず、どうでもよいことの最後に瞑想をしている、または、瞑想をしないでいる。
初期仏教に触れたことがないひとにとって、人は死ぬと成仏できたり、親などが死ぬと天国に召される、となんとなく楽天的にみなさん思っているのだとおもいます。
でも、スマナサーラ長老のお言葉を読んだり聞くと、ソーではないとわかります。あんなに厳しくいまの人間時間で可能なことをセヨ!とおっしゃる理由が最近すこし分かった気がしています。
人間に生まれることは、生命全体のエネルギーの内でごくわずか。このいまの一人の人間の過去世にあって、何度人間であったのか?
非常に少ない。たぶん、非常に。
いまの私の感覚では、ほとんどの人びとは死後人間界にゆけないだろう、と感じます。
一生懸命に仕事をし、子育てをし、社会でもうまく振舞っていてもです。もちろん、わたくしも。
過去を引きずる。
また人間に生まれたい、と素直に常識的に思うと心が汚れるようなのです。心を汚すと次元は下がる。振り返らない。親しい間柄でも、さらっと忘れる、一期一会。
出来る限りはしてあげる。でも、親に執着しないようにしてゆきたい。執着はしない、苦しまない。普通に生きてはできない大そうなこと。
さらっと、まったく新しいいまを生きる。
テーラワーダ仏教に出会った方々の質問にスマナサーラ長老が回答されている下記の動画を先ほど聞いていました。
老後の選択について/オプション戒律の実践法/瞑想のプログラムへの迷い・他|スマナサーラ長老の初期仏教Q&A(04 Apr 2023 ZOOM事前収録)
修行が進んでいる方々の質問は難解で理解できません。スマナサーラ長老の回答からすこし理解できるところを吸収している感じです、わたくしは。
少しづつ変わってゆく今日この頃です。来週日曜日は自主瞑想会に参加する予定です。
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