インテリ復古の提唱
「インテリ」って今は死語のように使いません。1970年代の教養系図書であれば、よく使った言葉です。知識階級というと学徒出陣の学徒。
過半数以上の高校卒業生は就職していた頃、大学に入学し卒業するだけでも知識階級と思われていた時代がある。
大学入試は、若者のエネルギーをかく乱し腑抜け化するべくして改変を繰り返した。教養からクイズのように試験問題は教養からかけ離れた。
本著で出口治明氏がインテリ復古を語ってはいないけれど、私にはそのような本に位置づけられました。
歴史ってどうなんでしょう?
日本生命の社員から独立。ネットによる生命保険の集客によって費用を抑え割安な保険を提供する会社を設立し、マスコミにも多く登場。
出口治明 さんが歴史好きなこともかなり有名。わたくしの学生時代は日本史も世界史の教科書も林健太郎というランケ学派の歴史学者による教科書であった。
中学でも高校生の時も未だに、歴史に私はホボホボ興味はない。ニュースは事実にかなり近い。けれど、歴史って解釈論。時間経過するほど、事実は解釈の捏造にある。
こういう事件があって、この国がこう解釈し影響がソコにでて、あの国に戦争を起こした・・・・。
って事実のように書かれているけれど、「ほんとうか?」。と中学・高校の私は、物語の1つの解釈を1方的に押し付ける歴史学なるものに疑問があった。
そんな問いを持つ学生はかなり稀だったと思う。けど、未だにその時の問いが正しいと思ってる。歴史学には学派があって、色々な歴史解釈があるハズ。
歴史の解釈には、「諸説あります。」というのが正直なところであり、しっかりソコの線を超えないでいる。歴史の解釈は仮説であり仮説を乗り越えることはできない。解釈論は、事実ではないし真理にならない。
人物伝に私が違和感を感ずるのは、西洋の宗教でいう「魂」論が根っこにあると感じるからです。生まれて死ぬまで突き抜かれた不動の魂。
そんなもの現実にはないのにね。どんどん瞬間で人は変わる。だから、歴史の人の心理描写や解釈は妄想でしかないのです。
別の候補に投票する意味
本著で一番関心したのは、政治に対する教養の部分。「北欧のこどもより、劣っている日本の評論家」という節。北欧の義務教育でこんなことを教えているという。
もし、あなたが選挙で、有力候補を支持するのであれば、
3つの方法があります。
有力候補の名前を書いて投票するか、白票を投票するか、棄権する3つ。
逆に、有力候補を支持しないのであれば、方法は1つしかありません。
投票所に行って、別な候補の名前を書いて投票する以外に方法はありません。
私は、選挙権を与えられてから、自分なりに現代史を学びました。どのような政党がどのような場面でどのようなことをしていたか?
調べたのです。立場の異なる、意見の異なる、解釈のことなる本を何冊も読むと、わかってきた。かなり世の中ヤバイと思ってきました。
だから、選挙には必ず投票してきました。次代の人々への責任として、選挙権のいう権利を義務のように使ってきました。
旅、野付半島
出口治明 さん は教養の1つに「旅」をあげています。その旅は一人旅。無計画で行き当たりばったりで宿はたどり着くままで予約しない。
実は、私の旅も出口さんとホボ同じです。わたくしの場合は写真撮影を目的に旅をすることが多く、自然風景って一期一会であり、絶景をどこでどのタイミングで観れるかわからない。必然、宿は決められない。
夜20時過ぎても宿が決決まらず途方に暮れたこともある。どこかのお店で買い物をして、その地元の方のツテで宿屋に電話してもらって泊まれた、ということも経験しました。
計画って失敗しない事前準備です。旅も計画って。でも、旅って意外な、想像を超えた出会いだったり感動という成功に掛かるべきものです。
そもそも失敗する前提でするのが旅なのではないか?
予期せぬ期待が旅ごころ。
期せずして、を求めるのが旅。
だから、なるべく予定は立てない。ポイントは決めとく、と言う程度。
出口治明 さん は 北海道の野付半島を旅された。期せずして、私の行き当たりばったりで野付の先端目指して旅したことがあります。あの頃を久々に思い出し、似たようなものを感じた私的1冊となりました。
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