痛い痛いではなく、痛み。主語を外す。

ヴィパッサナー

テーラワーダ仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老の説法に対して何でも質問してよいということで男性が質問しました。(テーラワーダ仏教協会のyoutube動画ですが、どの動画かはわかりません)

「法話を聞かせて頂きまして誠にありがとうございます。1つ感じることは、健康に関する方法のようなことが聞きたいのです。」

この質問者に対して、スマナサーラ長老は「どこにでも健康法に関することは語られています。わざわざ仏教でそのような話しをしますかね・・・。」と回答なされました。話しがかわります。

わたくしはこの2週間ほど、腰・首・頭がひどく悪く、凄腕の施術を受けても2日で悪化するような日々を過ごしていました。

健康法はあるていど知っている。

棒灸もした。足裏マッサージもしてる。施術にも頻繁に行っている。でも良くならない。「わからない。」「これが加齢、還暦のしわざなのか?」

先週の日曜日。掃除をそそくさと終えて、久しぶりに座る瞑想を夜しました。30分。

ゆっくりした動作で座り、足を組み、手を合わせ、背筋を懸命に伸ばして呼吸をする。

背筋を伸ばした時点から嘘のように痛みがない感覚。その感覚を忘れて瞑想をしました。

結果。

どこも痛くはない。「えっ?」「こんな簡単だったの?、原因の解消。」

また、すこし話しが変わります。

以前公共放送の特別番組でしたか、「腰痛は気のせいだ。」という結論が語られていました。研究による痛みの解明の結論が、「腰痛は気のセイ」。

この長患いの腰痛は「痛いんだよ、痛いんだよオレが」という気持ちでなっていた。たぶん。で、その気持ちを瞑想で取り払った。

「腰痛は気のセイ。」の意味がすこしわかったような体験でした。

人間はこころで痛むようにできています。

実際は小さな痛みでもこころで拡声器のように大きな痛みに変えている。この2週間に特別な何かをしていたのではない。でも、瞑想する時間は確かになかった。

痛いからしなかった。痛いから余裕がなくってできないことにしていたのです。

瞑想をして主語のある「痛い」から「痛み」という現実に意識が変わった。主語を外した。「痛い」は自分があってその自分が痛い痛いとおもう感情。

「痛み」は部分の痛みだけを感じ、自分を外して感覚に集中すること。

別の説法で、スマナサーラ長老は、瞑想するとこころだけではなく、体にも良いとさりげなくおっしゃっています。健康法を語らないけれど、瞑想が身体の感じ方に変化を与えることは確かです。

同じようなケガや病気でも、あまり気にせずに元気に過ごす人と、非常に気にして心配で気落ちする人がいる。

その「気」を明るく保つ方法が瞑想。

うそのように腰痛も頭痛も首痛もいまはありません。(瞑想するとどのような痛みもなくなる、ということではありません。念のため。イヤ、瞑想の達人はどのような痛みも「痛み」にしないのだと推測します。)

コメント

error:Content is protected !!
タイトルとURLをコピーしました