人間の仕事は生きることなんだそうです。
仕事というと、対価を得てする社会的活動と一般的には思われている。
でも、生きる為のすべてが「しごと」だ、となると、親にニコニコ満面の笑みを与えて、可愛がられる赤ちゃんも、りっぱにしごとをしてる。
なぜならば、可愛いと守ろう、大切にしたい、と親や周囲の人が思うから。満面の笑みを与えることは自分が生きてゆくことにつながる。
と考られると、人生がひろがりを持って本質に近づくことができるのだと思います。
若い頃は、上司に気に入られて出世した先輩社員をずる賢いと揶揄していたけれど、不正をしたわけでなく世渡りに成功しているのなら、りっぱにしごとをしていた、と見直すこともできます。
問題は、自分の寿命が尽きるのがいつなのか?わからないこと。
分かると、尽きる期限を知り残念だけど、期限までにすべきことの整理がしやすい。
期限までを幸せに生きてゆける算段がつくと、稼ぐための仕事のウェイトを落とし、真理ばかりにターゲットを絞れます。
思えば、今年のわたしは、そんなことで、何にどれだけのウェイトをかけるか?
という事を考えてきました。
今日死ねかもしれない、と切実だと、すべきことは決まる。
あなたは、たとえば、
明日死ぬとしたら、どんな今日を生きたいですか?
わたくしならば、ひたすらに瞑想します。けれど、長く生きるかもしれないとなれば、ソレばかりでは、長生きの準備が希薄になる。
生きる算段とすべき事の狭間でウオーサオー。
いつまでか知らない未来に、困難な状況へ自分を陥らせないための所作振る舞いをしながら生きつづけ、生活の現実から離れて真理に向き合いたい。
ウエイトの置き方をどうするか?
ココで功を奏したのは、起床後最初に仏教に接して文章を読むことでした。
朝の最初っから、ブログ運営に関する本を読んでいたら、もしかすると、瞑想を止めていたかもしれない。今年はソーならずにすみました。
想定していたより、本業と副業ばかりでない、真理に近寄る1年でした。ソレが良かった。
真理ばかりはダメ。
出家しないならダメです。
在家は、なんとかしないとなんともならない。なんとかできる馬力はたしかに若いときあった。でもいまは、若い頃とはかなり違うハズだから。
生きることがしごと。
生きることを真理を理由に放棄するのは本末転倒。でも、生きることだけでは真理に近寄れない。
生きる算段をつけ、その先に真理に近寄る。
生きる算段が盤石でない、ながらも、この世の生き方を学び実践しつつ、真理に近寄る。
そんな1年でした。
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