管理・管轄外と管理内

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昭和40年代の小学生の頃、東京都内にはまだ空き地があって、草野球をし、ジャイアンツの野球帽をかぶって遊んでいました。

リビングなどと言う部屋はなく、畳敷きの居間には白黒テレビ。手に汗握りながらファンのチームを応援していました。まるで自分がスター選手になった気分で遊んでもいました。

ソコから中学生、高校生になった頃には、ファンチームは無くなって、たまに野球中継を見ることがあるけれど、勝ってうれしい気持ちでは見なくなっていました。

戦況のアナウンスも応援団の勢いも人気チームばかり応援して情緒的。ひたすらに、ひいきのチームが勝つことを信じて・・・。

大差がついているゲームであっても、劣勢のチームを応援しているテレビの語調は、応援の手を緩めない。

まだまだ、チャンスはある。諦めるわけにはいかない。ファンとはそうしたものなもかもしれません。

ひいきのチームがない傍観者の私には、応援している情緒な部分に違和感を感じることがありました。

なぜならば、一生懸命にしのぎを削っても、どうしても負けることがあるからです。精一杯にがんばっても負けることがある。

スポーツでも勉学でも、精いっぱい努力をしても結果が良くない、ということが私にはありました。

でも、世間では、負けると結果を評価して「元気がなかった・・・」と落ち込ませる。

国と国、国内の紛争でも、似たようになっているのではないでしょうか?

どのようなニュースメディアにもバイアスは必ずあります。公正で客観的なメディアというものはこの世にはない。

だけれども、簡単に嘘とわかる事には「なるほどね・・・」や「そうなんだ・・」と首を縦に振ることもできません。

どのようなメディアはどのような創業時の社是があり、どこでどのようにどう変わったことがあったのか?

10年以上前から新聞も報道も、どんどんと虚弱体質化してしまったので、購入して読む気もないし、マスメディアもあてにしてはいません。

対象の受け手の不安心理に巧みに寄り添いながら、大きなうねりが生まれるのでしょうか?

してはいけない事をしている人を見たり出会うと文句を言いたくなる。

けれど、ソレで怒ることは自分の過ちです。怒りが湧くのは生き方、心の在り方に問題がある。

怒ったら負けなのが人生のゲーム。

乗っからない、で、自分の管理内のことに集中する。

「それって嘘ですよね!」と指摘することはあまり意味はありません。嘘ではないのに私が嘘つきだと批判されたら戦う。

他人が勝手に嘘偽りで生きてゆくのはドーにもならない。ご本人が改心するしかない。

そのことで、徐々に自分の生活に影響が及ぶかもしれないけれど、だからといって、妄想を掻き立てて世直ししたいとは思わない。

「世」が幻想。(個人的は見解です)

自我は幻想で、自我の集合が世の中。

時間のある時に、自分に集中する事。ソレ以外に人がすべきことはありません。

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