転生輪廻ってどうなのか?

ヴィパッサナー

転生と言うと、もう信じられない。私もソーでした。

中学生の頃、公共放送のドキュメンタリー番組でホスピスに住む人を取りあげている番組を見ました。ある女性。まだ若い。けれど、末期がん。

その女性は、「輪廻を信じてますから死ぬのは怖くありません。」と、でも、どこか張り詰めたような表情でインタビューに答えていました。

当時の中学生の私は仏教に否定的。どちらかというと絶対神というものがあれば安心という感覚でした。

「輪廻という生まれ変わる、という事を”ある”と信じると、死ぬことでおしまいではないから怖くはない。」という意味なのかな?

と考えた事を思い出します。中学生の私は生まれ変わることなどない、と思っていたので、所詮、思い込みからの安らぎを感じたいだけだのではないか?と捉えていたのです。

それから、大分たって、人の心には共通した良心のようなものがある事に気づきます。人に愛されるとうれしく感じる、といった共通した感情がある事が不思議だと思ったりしていました。

なぜならば、全くの虚無から突然発生したのであれば、心を通わせることの意味ってあるだろうか?と思っていたからです。

虚無から一回きりの人生を生まれて、死ぬと虚無となって無くなるのであれば、心を通わせる意味はないし、逆に、他者を殺す事を悪とする意味もない、と考えていたのです。

へなちょこですが、思考していると上記のような結論だった。その一方では、感覚的には、何もなかったようには感じられない、もう1つの実感は確かにありました。

生まれる前にも確かに存在していた感覚です。なんとなく。ソーした感じって無いですか?

高校生の時に、突然に、全く学んだこともない概念が頭の中で浮かび上がり、それを考えていた。哲学者のように考えている。

学校でも書籍でも読んだことなどないのに、知らない概念を知っていた不思議感。その概念=言葉がすでに理解し記憶され、その前提で、先の何かを考えていた。そんな事を思い出します。

ちょっとした驚き。

時系列があべこべですが、幼少期の事。

3歳の時に、外の通りを歩いている大人に背面から念を浴びせていました。歩く大人が背中を向けて遠ざかる。その大人からの視覚からは見えない自分が気を送ると、その大人は感じるだろうか?

感じるとすれば、目に見えない何かがある事を証明できるハズだと考えていて、何人かの大人に実験をした。

すると、確かに振り返る大人がいた。何かおびえるように、何かを感じたように振り返った。「やっぱりな!」と3歳の私は合点したのをしっかり今でも思い出します。

テーラワーダ仏教では、瞑想中に気づく、心の現れては消え、また、現れては消える。という感じで転生する、と言っています。間違っているかもしれません。よくわからないです私は、まだ。

さらに、なるべく執着を捨てた方が良い、とも言っています。良い転生をしたいならば。ココは少しわかる気がします。

家がどうのこうのと心配せずに、財産のようなものから心を離し執着を捨てる、と言った事です。

天才っていますでしょう?

小さい子供がバイオリンがとてつもなく上手いとか、ピアノを少し教えただけですぐに上達する。

天才って、転生輪廻がある、と仮定すると、いて当たり前と納得できます。

前世でしていたので、今生でも才能を持って生まれる人はいる。

テーラワーダ仏教の長老、アルボムッレ・スマナサーラ長老がyoutubeで、とんでもない子供が現れた。親に教わるでもなく、英語をネイティブに話せる。仏教の本質をさりげなく語っていると、ほめていました。

そして、「人間は侮れませんね。」とおっしゃっていました。

で、私は後で興味があったので調べて、その子供、田舎の子供のyoutubeを発見しましたので、最後にリンクします。

興味がありましたら、ご覧ください。左の少年です。

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