預流果の少女

ヴィパッサナー

預流果になることを、テーラワーダ仏教協会のアルボムッレ・スマナサーラ長老はヴィパッサナー瞑想の目標のようにおっしゃります。

禅定の修行の段階は4つあり、預流果=三結(有身見・疑・戒禁取)が絶たれている。一来果=三毒(貪・瞋・癡)が薄まっている。不還果=五下分結(三結+貪・瞋)が絶たれている。阿羅漢果=五上分結(色貪・無色貪・慢・掉挙・無明)が絶たれている。があります。

生まれ変わりについては、あることの報告を見聞きしたことが私にはあります。書籍もあります。トンデモ本の中に、わずかに信ぴょう性のある書籍はあります。

そして、昨年、預流果から転生した子がいる、と聞きました。

預流果になると、7回の転生を経て確実に悟りに至る。最大7回目の転生で悟る。とスマナサーラ長老もおっしゃっているのを聞いたことがあります。

その少女のyoutube動画を発見しました。

もちろん、現地の言葉なので、全くわかりません。けれど、一生懸命に、時には真剣なまなざしで1つ1つ考えながら語っていることはなんとなくわかります。

その動画を日本語でわかりたい。何とか現地言語を日本語変換しようと試みましたが、youtubeの現在のAI自動翻訳の機能に限界があって、全く日本語で理解できない。

そこで、その預流果の少女の言葉をテキストでネット上に公開しているサイトを見つけて、そのサイトを日本語変換してみると、意味が分かることを発見しました。

初期仏教で語られている事は、昔の物語のようなものではありません。認識論のようなものです。事実であり真理です。本来の仏教徒は決してウソをつきません、本当です。

転生と前世での学びが現世に引き継がれるという、仏教のいう真理を証明しているのが、この少女です。

こんなことをあっさりとその通りだな、と聞き入れてくれる日本人はほとんどいないことでしょう。

彼女の言葉からは、ダンマの深い理解があり、驚かされます。私は全く学びが足りないので実はよくわかりません。けれど、高度な認識論を話しているのはある程度には理解できます。

----以下抜粋ーーー

少女はお父さんとの対話で真理を語ります。

彼女は次の例で説明します。「このクッション(ソファの上)に指を置くと、クッションに指の影が見えます。その影は指のものですか?」

–お父さんは言います。それは指のものです。」彼女はそれは本当は正しくないと言います。

–彼女は、「明かりを消すと(夜間)、影が見えますか?」と尋ねます。お父さんは「いいえ」と言います

–次に、彼女は次のように尋ねます。「その場所にまだ指を置いているのに、影が落ちるクッションなどがない場合はどうなりますか?影が見えますか?」お父さんはダメだと言った”。

–最後に、彼女は「私が指を離すと、再び影が見えなくなる」と言い、お父さんは同意します。

彼女は、指、光、クッションの3つの条件がすべて揃っている場合にのみ、影が見えると指摘しています。」そのため、影が指のものであると言うのは正しくありません

–それで、父親は、影が指のものであると言うのは本当に正しくないことに同意します。

このライトが消えても、あなたはまだ私を見ますか?」(少女)、いいえ。(お父さん)

–「ライトが点灯していても、部屋から出ても、あなたは私に会えますか?」(少女)、いいえ。(お父さん)

–「私がここにいて、明かりがついているのに、目を閉じると私が見えますか?」(少女)、いいえ。(お父さん)

–「さらに、目を開けてここに座っていても、何かを深く考えているとしたら、私が部屋に入ったら気づきますか?」(少女)

父親は、深く考えれば彼女に会えないかもしれない、つまり、cakkhuviññāṇaが起こらないかもしれないことを認めています。

–したがって、父親が彼女に会うには、いくつかの条件を満たす必要があります

あらゆる感​​覚的経験は、必要なすべての条件が存在する場合に発生します:十分な光、視覚能力を持つ衆生、およびそのオブジェクトに対するその感性の注意(つまり、cakkhuviññāṇa は注意なしでは発生しません)。

これらすべての条件が満たされると、視力が得られます。しかし、「私はそれを見た」と言うのは正しくありません。それはただの「見る」ことです。間違いは、「私」を追加して「私はそれを見た」と言うことです。

人体の誕生( jāti )は「自分がした何か(カンマ)のために」起こらなかった。また、他の誰かの行動のために発生しませんでした。それらも自発的には発生しませんでした。それらは、縁起による原因と条件のために発生しました(つまり、1つが生まれました)。

少女の言葉をテキストにしているサイト運営者のコメントです。:父の体を生み出したカンマ父によって行われたのではありません。それは前の人生で行われました。その前の人生は現在の人生と同じではありません。しかし、2つの人生も完全に分離されていません。これらは、最初は明らかではないかもしれないより深いポイントです)。

ーーー抜粋おわりーーーー

先日の瞑想会でスマナサーラ長老は「鏡には何が映っていますか?」と言って問題を提起され、少ししてから「真っ暗闇の鏡には何が映りますか?何も映りませんね!」とおっしゃっていました。

4歳の少女のいう「指、光、クッションの3つの条件がすべて揃っている場合にのみ、影が見える」ということでも、私にはまだ理解ができないけれど、同じようなことを言っているのだと思います。

人間は、幻想で条件を見ずに、簡単に「指には影ができるのは当たり前・・・」と思っています。けれど、いくつかの条件が無くなると影は無くなるのです。

そして、少女のいう、「「私はそれを見た」と言うのは正しくありません。それはただの「見る」ことです。間違いは、「私」を追加して「私はそれを見た」と言うことです。」ということは、初期仏教で言われている、「自我はない、自我は幻想です。」ということと同じです。

デカルトは「われ思うゆえにわれあり」と言っていました。西洋の心理学も自我前提での学問。

私は心理学が好きで、いくつかの書籍を読み考えていた時期があります。そして、日本の仏教に興味が移り、日本でもっともポピュラーなお経=般若心経を覚えていた。

その時に、「これってタマネギだな。」と感じました。そして、日本人には自分がない、海外では良く自己主張を言い好き嫌いを当たり前に言うけれど、日本人はあまり自分の意見を言わない。

日本の般若心経が現代の日本人の心に何か影響があるのかな?と考えたことがあります。

般若心経は「結局何が言いたいのか?」と考えると、自我が無いと言っている。(個人的は見解です)

私は今は確かに「自分がある」と錯覚しています。「私はそれを見た」という誤った認識をしています。けれど、修行が進むと、「私などはない。」ということが確かに認識できるようです。

何という事でしょうか?

4歳の少女は、生まれる前からの知識をしっかり持って生まれたのだと私には思えるのです。その知識は俗世間で言われている知識とは質が明らかに違うのです。

実は、すごい大ニュースなんでしょうけれど、人々には別な関心で頭が一杯なのでしょうね。

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