風評と風評被害と忘却と理性

Uncategorized

3.11は今日と同じ金曜日でした。高層ビルの地下3階でいつものように仕事をしていました。

「そろそろ3時、明日は定休だ、何をしようかな?」と勤務中に仕事をしながら、週末モードで仕事の疲れから少し解放された気分だった。

ソコからこれまで体験したことのない揺れがあって、一瞬「このビルの重みに耐えられるだろうか?」とビルすべての重みが下に向かい高層のすべての重みで押しつぶされて死ぬんだろうな、と思ったことを思い出します。

あなたは、どのように過ごしていましたか?

会社の命令で当日職場で勤務を続けて徹夜。翌日であったかその後か忘れましたけれど、帰宅。自宅は大きな被害はなかったけれど、町の様子が変わっていた。

食料を購入する事ができなかったけれど、日高屋さんとおむすび屋さんだけは必ず開店してくれていて、ソコだけを頼りに食べ物にありつくことはできたことを思い出します。

そのころには「風評」だったり「風評被害」という言葉は表立って使われていませんでした。大事な事は、どれだけ事実をしっかりと知っての「風評」であり「風評被害」なのか?ということです。

事実認識の差異があると、その言葉の意味は全く変わります。世の風潮として私が感ずることは、事実認識が確かで、良く知っている人は少数派。

良く知らない人に向けられた、事実へのアプローチを阻害する盾のようにして、「風評」だったり「風評被害」という言葉が利用されていることはないのだろうか?ということです。

結論としては、個人がしっかりと理性に基づいて調べていれば、事実はしっかりわかる、ということ。

気になる事は、「風評被害」という立ち位置からの風評を批判するベクトルって忘却誘導にならないか?

ということです。

「3.11を忘れない・・・」という言説の真逆のベクトルに「風評被害」という言葉は立っていないでしょうか?

私も、そしてあなたも被災者であったわけです。あなたが私よりも不幸なのか幸福なのかを知らない。

けれど、世の中、人社会の範囲を超えて、世の中は無常であって、常にどのようにも変わる。コレは事実です。

過去を振り返ることは良いことではない。

では、何を忘れないことは良いことになるのでしょうか?

たぶん、いまも3.11を原因として苦しんでいる、そうした人の苦しみは忘れない。できることはする。ということ以外はないのだと私は思います。

差別を受けて苦しんでいる人が傍らにいたならば、仲間として親しくする、ということ。さりげなくたんたんと。何かの募金があって、信頼できると判断したら参加する。

こうしたことは、「3.11」限定のことではありません。

当たり前のことを理性で、感情という貪瞋痴で揺れることなく、感情に共鳴せず、いつも通りにする。

話しがかわります。

私はタクシーに乗ると運転手さんとすぐに仲良しになります。話しかけます。どんな仕事をされてきて、どのようなタイミングで運転手をされたのか?といったことも一見客だからこそ打ち明けてくれる。

かつてこんな話しを聞いたことがあります。

「昔は、人身事故とか起こしても、親族が許してくれてね。『仕方ないよね・・』て言ってくれる人もいた・・・」と仲間の運転手から聞いたことあるよ。といった話。

昭和の頃だろうと思います。家族はタクシーにひかれて亡くなった。そうした事故を起こした運転手さんがお悔やみにいったのだと思います。

そこで怒られるでもなく、許す家族はいたのです。

人間は過ちをする。そこで責めて失敗の償いを強要することには、自分にとって意味はない。という考え方の人、普通の人がいた。

もしかすると、そうした人は今もご存命なのかもしれない。

コーしたことは悪いはずはないと私は感じます。

感情を煽ることを続けてきた、煽るソレを許し、垂れ流した結果、許せない、許さないことが普通になったのでしょう。

今では、許さないことが美徳のようにして。

であっても、理性があると、ひとりで、悪いはずはないことはできるのだと思うのです。

コメント

error:Content is protected !!
タイトルとURLをコピーしました