お食事中でしたならば、失礼つかまつります。忘年会のシーズンに入りました。わたくしは会社の忘年会は欠席します。飲み会には参加しないことに決めています。会社の飲み会はスルー。
若い頃には週に3回行っていた。誘って誘われて。課に新入りが入ると、さっそく歓迎会の音頭をとりました。20代。
いまの会社でも「行きましょう!」と誘われたことがあるけれど、仕方がない業務の一環の場合のみ参加。盛り上げるテクは半端なくあるけど、静かを演じてます。
最近は誘われない。ラクチン。行かない人になったから。
「忘年会」って普通の飲み会と意味違います。忘れること前提。
至らないこともあったと思う、けれど、水に流してまた来年もヨロシクね!という感じ。つまり、流せないものだからこそ、流しましょうよ!ということ。
世の中には「決して忘れない」という美徳と「忘れましょうよ」という諦めのはざまってある。どちらかというと、「決して忘れない」が優っているんではないかな?
私恨じゃなくって、たとえば、東日本大震災の被災者に対して。
忘れたホーが良いものと忘れないホーが良いものがよくわからない。ですよね?
わたくしは小学校の頃先生から陰湿ないじめを受けていたようですけれど、そのことに気づいたのは中年になってからです。
くりかえし悩んではこなかった。元気がない、という程度。寝つけない夜ってホボありません。仕事でパワハラがあっても、最寄り駅の改札を抜けたら忘れると決めてきた。
切り替え上手。
なんども転職を重ねて、「一生(恩義を)忘れませんから・・」って後輩に言われた事もあるけれど、「決して忘れない」って執着だよナーっと思ってきた。普通はうれしい、最上のことばなんでしょうけれど。
ドン引きされるようなたとえを1つ。
生まれたというのは最近死んだ・・とアルボムッレ・スマナサーラ長老がYouTubeでおっしゃっていました。
赤ちゃんはそのまえに最近に亡くなったひとの転生。ココ前提です。
なにかの震災や洪水や不慮の事故で亡くなると、生前使っていたものを大切に保管したり部屋をそのままにしていることがありますよね。毎日思い出すことが供養で良いこととされています。
生まれたというのは最近死んだ・・とアルボムッレ・スマナサーラ長老がYouTubeでおっしゃっていました。
人間って生命体が本質。
人間が人間に転生しない場合もあるけれど、幸運にも人間に生まれかわった、どこかの若い女性の赤ちゃんとして。
記憶は肉体に属しているんでその赤ちゃんは、「なにかの震災や洪水や不慮の事故で亡くな」ったことを覚えていないけれど、たしかにあの生命体が別なカタチで生まれている。
わたくしの親戚の沢山被災しなくなった。でも、コーなんじゃないか?
お母さんを唯一無二の保護者として懐き母乳を加えて幸せに笑っている。のではないか?・・・。
わたくしは、父が亡くなって、さっさと父の遺品を整理しました。捨てました。世間とは真逆です。だからって、育ててくれたことは末永く感謝しています。回向もします。
思い返しても意味がないと知っていたからです。執着は暗いこころ。執着の捨て方|スマナサーラ長老の初期仏教月例講演会(21 Jul 2012 代々木)
もう父はこの世にはいない、とわかったからです。
魂というものに引っ掛かるわけにいかない。
ただし、いまだに父をウンコのようには流せない。すこしは執着はあります。
涅槃の境地は知る由もないけれど、たぶん、あらゆるものごとを、ウンコを流して顧みないような感じで流しているのだと推測します。(個人的は見解です)
もしかして、わたしの父だった生命体が幸運にも人間に転生していると、私より若い女性の子供になっているでしょうか?
現実は、私より若い女性の子供としての生命体なのに、相も変わらず、自分の父の思い出にふけるのって、俯瞰してみると滑稽にも思えます。
転生輪廻がわかると。
事実じゃないからこそ、思い返しても意味がない。とわかります。初期仏教でなければわからないでしょうね。
無意識に”魂”を信じているから普通に執着し暗い心になるのでしょう。(個人的は見解です)
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