パラリンピックと親指

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人間に親指がなかったら

まだ、自動改札がなかった頃、駅の改札には駅員がいて、きっぷを切っていました。自動発券機に今以上にたくさんのひとが立ち並ぶ。

その頃、健常者と障害者の違いとは何だろう?と考えていたと思う。目の見得ない人がその自動改札に並び、後ろの人がきっぷとお釣りの手助けをしていたようにも記憶する。

フト、こんなことを思った。

「健常者に親指が無かったら、一人ではきっぷを取ったり、お釣りを取ることができない・・・」

こうした、わずらわしさがあることで、人々の助け合う行為が自然に増して、ストレス社会から人間社会に変るのではないか?

と。不便な部分をあえてそのままにすることで社会が非効率になるけれど、社会に関係性が育まれる。関係性のほうを選ぶ。

助けが多いと社会は変わる

なまじ、一人でできてしまう、できると思うから、競争社会が息苦しい。基本的な日常の動作1つでも、不自由だと、どうしても他人と関わり助け合う必要が生まれる。

体は不自由だけれど、社会は今以上におおらかにならないか?

そんなことを、何十年前の自動改札で考えたことがあります。

わたくしは、病院に行かなかったけれど、パニック障害のような症状になったことがあり、心理学の本を読んで自分は病気なのか何なのかを調べていたことがある。

こころの病気をもった人と普通の人には違いはあるけれど、正常な人の中にも病理性はあって、その部分が強くなると病人になると知りました。

つまり、健常者と病人の間にはグレーな状態がある。病気となった、そのひとだけに何かの病理性があって病むのではないと知りました。

そうした流れの中で、健常者と障害者について考えたのだと思います。

自助が進むと社会は荒む

自力と他力。初詣で手を合わせて拝む。お通夜や告別式でお坊さんに念仏を唱えてもらう。どちらも他力。本人のチカラでは及ばないものを得て、良い方向に向かわせる。

初期仏教で修行して解脱に達するには自力が大切。自力本願。自分自身で瞑想し禅定に達する。人間の成長というものがあるとすると、こうした仏教による気づきの発見以外にはないと私は思う。

であっても、俗世間と隔絶して修行はできない。必ず、在家信者の助けがいる。その部分は他力。

2021年8月現在の日本では、他力であるはずの機能の責任者が「自力でやってください。」と言ってしまっている。

初詣で神社でお参りしていると、神主が拡声器に口を当てて「自力でやってください。神に頼らないで・・・」と言っている。そんなあり得ない状況が現実となったのだ。

健常者と障害者

精神科医や心理学者の書籍を読むと、健常者にも病理性はある、と書かれていることがある。テニスの大阪なおみさんが病気なのかはわからない。

けれど、あれだけテニスの選手としての世界的な成功者であっても、病理性で悩んでいる。苦しんでいる。他人事と思えない。

パラリンピックの選手は肢体の不自由な人たち。体に大きく弱った部分を抱え、それでもなお、体を鍛えて、鍛えて発達できる部分で勝負する。

日常的に、障害者や車いすのひとを見かけることは増えていないと実感する。老人は明らかに街中に増えた。子供も明らかに電車でみかけなくなった。

電車の車内で大泣きする赤ん坊は、ほんの数十年前当たり前にどこにもあった。親が子を叱る躾の風景も普通にあった。

パラリンピックだけが浮いていないか?

全体を底上げするには、おおらかさが必要で、非効率を選ぶ価値観を共有することも大切。オリンピック選手とパラの選手。

一定のルールを作り、同じ競技で、健常の選手と障害の選手が競う。そんなオリンピックが見たいと思う。

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