数年ぶりにテーラワーダ仏教協会の瞑想会に参加させて頂きました。
参加人数はざっと換算して70名といった感じ。スタッフと申し込み参加者の区別がつかない。腕章のようなものは無かったと思います。
スタッフと参加者の区別をあえてしない方針なのかもしれません。受付開始から開演までに30分あり、受付時刻を少し過ぎてから受付に並ぶと、かなりの参加者が会場にすでにいました。
靴を脱ぎ、手指消毒をして、名前を告げて入場。パンフレット(礼拝と日常経典)を頂き、お布施をして、窓側のスペースに座って待ちました。
会場の催しに参加するのは、講演会以外では初めてです。2年ほど前に伊豆の合宿に仕事休暇予定が合い、参加する予定でしたけれど、抽選で外れました。
その分、コロナ渦にはyoutubeでテーラワーダ仏教協会の公式に公開している動画ばかり視聴していた時期があります。最近は副業に多くの時間を割いているので、瞑想時間は減った生活。
生活パターンを新年から変えており、このタイミングで参加できたことはかなりラッキーだったと感じています。
数年前にゴータミー精舎で瞑想指導を受けたことがあります。なので、ある程度は習った。それでも、自分の仕方を確認する意味でも、今回再度瞑想指導を受けたいという事で指導を希望しました。
主催者の女性の方が司会のようにして開演。「今回も全国から参加されています・・」というお話。そして、スマフォのチェック。
私はスマフォを通常モードにしていたので指摘が助かりました。隣の方同士でチェック。スマフォは電源OFF乃至マナーモードにての参加が必須です。
プログラムは渡されていませんでしたが、全てのスケジュールが定刻通りに進行している印象を受けました。10時ぴったりに長老が登壇されました。
すると、何人かの方々が、床に手のひらと額を当てて腰を上げて拝礼されている。「全幅の信頼を置く」とはこうした心の姿勢なのだと直感します。
私は何かのセミナーに参加している気分でいるけれど、この方々は強い気持ちでお出迎えされている、印象的でもあり、自分の気持ちの薄さを実感しました。
長老はそうした礼拝に応える事をされない、そこも印象に残りました。清々しい感じ。関係性はあるけれど、つながりや結びつきを求めない。
日常経典を唱えます。これまでのような違和感はありませんでした。心の核心を持っていかれるような違和感はありません。
長老の法話が始まりました。(つづきます)
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