個人の課題を自力で解く

ヴィパッサナー

大きな地震があったようです、みなさんいかがお過ごしでしょうか?

初期仏教では、それぞれの人生の宿題を見出して、瞑想で観察して発見してゆかなければならないと言います。

世の中でよく言われているような、成功法則が提示されて、同じことをすると成功する、という方法とは異なります。

個人的な実感。

ここのところ、なかなか瞑想に集中できません。何が原因なのかは今のところわかっていません。

自宅での瞑想は集中できないけれど、通勤途中や帰宅途中には、その埋め合わせのようにして、慈しみの瞑想と歩く瞑想と呼吸の実況中継をしています。

スマナサーラ長老は、瞑想に集中できない場合には、自己観察をする。すると、掃除をすることが優先する必要のあることもあるし、瞑想以外の何かを優先すべき、といったような、何かに気づくことはある、とおっしゃっています。

今のところは思い当たるフシがありませんから、気にせずにできる範囲でその時間に座ることにしています。

私は30歳頃に何もかもがいやでアルバイト生活をしていたことがあります。当時は、「やりたい事がない、なぜならば、価値のあることは世の中にないから。早く70歳くらいの年寄りになりたいな・・・」と考えていました。

普通だと、とにかく職を得て、結婚して子供を作って家庭を持ち、マイホームを購入する・・・ということで「幸せ」なのだと思います。コーしたことに価値があると思えませんでした。

世の中に価値があるものはない、という考えについては今も変わっていません。世に言う夢であったり成功といったものが陳腐で価値があるように感じない。

理由は簡単です。死んだら何にもならないし、死をもってしても意義のなるものはない、と思っていたからです。

今はまだ70歳になっていませんが、あの頃想像もしていなかったことは、初期仏教というものを知って、調べて、方法も知って実践して、少しづつ自分が変わることがわかるようになったことです。

なんという幸せだろうか?

初期仏教に出会わずに亡くなっていたら、こんな幸せを実感することなく、30歳のころの思いのまま終わったと思います。

つながる。

死をもってしても乗り越え得るもの、価値のあるものが1つだけあった。人間の本態とはどのようなものなのかもわかる実践方法があって、知って、やれている。

どのような書籍でも読んだことのない、人間の在り様と心の本体とは何でできているのか?といったことを少しづつ知ることができている幸せ。

たとえば、集中力が自然に身に付くと、仕事が速く正確にできている。

仕事ができない人を観察していると、問題点がわかる。30歳の頃には、こんな人生を向かえることになるとは想像もしていませんでした。

コロナ、戦争、地震。

いつ何が起きるかわかりません。

だから、今、ヴィパッサナー瞑想ができている幸福感と、貪っていられない気持ちをもって、たんたんと生きているという感じです。

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