再び人間に戻る事がある件

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以前当ブログでも、仏教の神髄を知って生まれ、スリランカで大人に説法をしているスリランカの少女については、少しお話ししました。(リンク先は少女のyoutube動画です)

この少女について、日本テーラワーダ仏教協会のパティパダーと言う月刊冊子で取り上げられています。

私が知った当時はその少女のyoutube動画は再生回数が100回とかそんなもんでしたけれど、2022年5月20日現在は、22万再生されている動画もあるほど注目が集まってきています。

転生輪廻というものを実感として感じることはありません、私は。臨死体験というものを否定する人もいます。臨死体験は死んでいないんだから・・と全否定している人はいます。でも、そんなに簡単に捨て去る事でもないと私は思います。コーした体験はあるのかもしれない、と調べてみる事が大事だと思います。

天才のような子供はたくさん世界にいる、という現実は知っている人は少なくはないと思います。音楽や語学の天才少年少女がたまにいたりしますよね。

なぜ?普通の子供や、劣った子供や天才的な子供がいるのか?

ということを説明することはできないかもしれない。私は常識にとらわれないので、前の生まれでしてきたことがあって、今回はその続きをしている、と想像してみる事があります。すると違いがある事に納得することはできます。

ほとんどの方々は、前提となる転生輪廻を受け入れることはできないのだと思います。私もソーです。

でも、正覚者が「前生で仏教の真理を理解し、預流果(よるか)に達してから再び人間に戻っても、覚りの智恵はそのままです。」、とスリランカの少女を取りあげて仰る。この言葉の意味は大きいと私は感じています。人類がこぞって取材し検証するべき少女だと思います。新しい化身の子のダライラマを探すようにして。

初期仏教には悟りを得る方法までもが明確に受け継がれていて、4つの段階の悟りがあると明言しています。仏典にあり、スマナサーラ長老のyoutube動画で知ることもできます。

4段階ある悟りのステップの最初の禅定のことを預流果(よるか)と言います。テーラワーダ仏教の長老であるスマナサーラ長老は「預流果(よるか)になると、7回の転生の間に確実に解脱できる。」と明言されています。

どういうことなのか?興味を持ちながら確かめてみる、調べてみる価値はあるでしょう。話しが少し変わります。

私は子供の頃、11才くらいの頃から真理、真実、人間とは何か?といったことに興味がありました。理由は未だにわかりません。

テレビで功成り名を遂げた、その道の第一級の人をインタビューする番組には、普段、大人からも聞いた事が無い人生の真髄の言葉が語られて、よくわからないけれど、「僕の知りたい事を言っている」と直感して、食い入るように聞いていた事を思い出します。

コーした性格は、少しながらもつながっていて、哲学や宗教や神秘系の本なども読んできました。日本の仏教書を読みつなぐうちに、そもそも仏教の原点を今知ることはできないだろうか?とずっと思っていました。初期仏教にであった最初は、笹塚の本屋です。

当時の職場が笹塚にあり、帰宅途中に本屋に立ち寄っていました。当時は3日で10冊の本を読むと決めていて、ほとんど図書館で借りて読んでいたけれど、新書は買うお金がなかったので立ち読みをしていたのです。

衝撃的でした。11歳の頃に知りたかったことが1つ1つ書かれている。どこに向かっていけばよいのかわからない地点から、光明を発見したような感激。

貪るようにスマナサーラ長老の書籍を読みました。でも、一直線に進んできたわけではありません。のらりくらり。なので、私は何にも達してはいません。

ただ、ヴィパッサナー瞑想をし慈しみの瞑想をこの1年以上続けてきて感じるのは、些細なことで感情が揺れなくなり、人の感情の動きが少しは冷静に感じ取れるようになったことです。

仕事も雑念なくすべきことを一直線でできるように変わったので、年を取ってきているのに能力は高まっているように感じます。

お釈迦様は、前世や来世を考えることなく今を大事にすることだとおっしゃっていたと思います。ソコはかなりしっかりとしてきたかな?と思っています。

私はこれまでに3回、スマナサーラ長老を遠目ですが拝見させて頂いています。幡ヶ谷のゴータミー精舎で1度、中野での講演会に1度、そして2か月前に瞑想会に1度。熱心な信奉者ではないかもしれません。

今年の瞑想会でのスマナサーラ長老のお話しをお聞きしていて感じたことは、会に参加しているひとりひとりの問題を吸い上げて、すべての参加者に意味のあるお話しをされているんだな、という事です。

なぜ?そう感じたのか?というと、私の課題を知って、私が理解できる言葉で語られて、わたくしは腑に落ちたからです。

そして、「そういうことだったのか!」と納得してスマナサーラ長老を観ると、目が合って「わかったか。」という意志が伝わり、心の中で「わかりました。」と返事をすると、にっこり微笑まれたのでした。錯覚や私の妄想ではないでしょう、ヴィパッサナー瞑想をしてきて区別はできますから。

わたくしは、質問はしていません。ただし、数年前にゴータミー精舎での瞑想会で、スマナサーラ長老の法話中に号泣したことがある。

感動したのではありません。何かを作られた拭きかけられたような感覚でした。すると、遠い異国で殺されている人々への悲しみが身体の全てになって、ただただ悲しみの塊だけになったのです。嗚咽が止まらない、止まらない。なんてこった、という自分があるけれど、収まらない。

何が起こったのは未だにわからない。長老は私に何かをなさった。それだけがわかった。ソレは自分で回答を得たいと当時は思った。「あれは何だったのですか?」と聞く勇気がないと同時に自分で知りたいと思ったのです。

数年後の今年、何も名乗っていないのに、長老はその時の私だと知っていたのです。そしてあの時の号泣の意味を、瞑想会のみなさんのいる法話の中で自然な流れの中で、私だけにわかる説明の仕方を選ばれてお話しされた。

コーしたことは、日ごとから本を読み、youtube動画も拝聴した下地があってやっとつながったのです。疑問や課題を瞬時に知って、どのように話すのかを決めて誤りなく的確に法話されている、と感じました。

私は特別な人間ではないので、私だけにしているハズはない。人知を超えている能力、集中力、人間業には思えないんです。ただし、なんの信心も信仰もありません。信仰心を煽るのは貪瞋痴の中にある、ということは理解できているつもりです。

信仰心を求めるのは、宗教だと思うけれど、テーラワーダ仏教はそうした脅しがない。なぜならば、心を完成形に向ける方法を学ぶ場だからです。信仰ではないとすると何なのでしょうか?

認識の感度が変わるだけです。

スリランカの預流果(よるか)の少女は、現実に2022年5月20日現存しています。居合わせた、私と、あなたとも、とも言えるでしょう。(この私の短い人生の時間の中で、同じ地球に同時間帯に生きていることを”居合わせた”と私は思うのです)

何も誰からも教わっていないのに生まれながらにわかっている、という事はあるのです、たぶん。

彼女は今回解脱するのかもしれません。興味を持ちながら、異国で見守りたい。そして、日本で自然な流れの中で私も修行を続けていけたらな、と思っています。

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