世界は一人の中に閉じている
テーラワーダ仏教に出会って10年。マイペースで慈悲の瞑想とヴィパッサナー瞑想をし感じ取れたこと。
それは、感覚・感じる感じ方は一人の人間であっても一定ではなく、常に変わるということです。起きてから寝る間で、どんどんと意識の向く方向は変わる。
考えない瞑想=ヴィパッサナー瞑想をしていると、考えてはいけないと思いながら、知らぬ間に考えていることもある。
自分ひとりの身体感覚を追うのがヴィパッサナー瞑想。
自分の身体の感覚と同じように他人が感じるとは思えない。とわかる。瞑想していない時点の己の身体感覚・他人の言動等から受ける受動的感覚、惹いては、世界の出来事を知るという感覚。
そのすべてが、実は、現実でも事実でも真実でもない。
そのすべてを”感じた”感覚だけだということ。
感じ取れない何かは、無い。
だから、ひとは一人ひとり、世界の中でたった一人に閉じた世界以外わからない。
人生の中身はちっぽけ
この世の1回限りの、いまの人生しか見ようとしない人の人生とテーラワーダ仏教が教える人生は全く違う。
世の中には数多の仏教と呼ばれている教えはある。けれど、仏陀自ずからの教えがどの部分なのかを明確にしている仏教は稀。
テーラワーダ仏教にも色々な宗派はあるけれど、文化的な側面をそぎ落とし、真に仏陀の教えを抽出して学ぶことのできる日本テーラワーダ仏教は世界的に、無いのではないか。
仏陀の教えから学べること。
それは、一般的に「よし」とされている人生でさえ、かなりばかげている、幻想の世界におぼれた、意味のない人生だ、ということ。
本物の仏道は、世界平和などというちっぽけなことでは収まらない。
仏縁はなかなか得られない
標準的な人生がロッククライミング中に滑落している様に見えてくる。滑落して悲惨な目に合ってるのが人生だとわかると、「人生は素晴らしい・・・」という事自体がバカげているとわかる。
当のご本人=人類のすべては、滑落していると感じていない。
なんで毎日同じようなことを繰り返しているのか?
バカげているとわかる。
抜け出せないし、閉じていると知らないから、繰り返していると感じられない。無限ループにご自身が嵌っていることを感じない。
人生は悲惨で惨い。
というキッカケが仏縁を作る。
猛スピードで落ちている。その滑落の感じを知る。楔を岩肌に打ち付けて、落ちるのを止めようと必死に食らいつく。
止まる。
そこに、上に引き上げようと、差し伸べる手。眼前に立ち現れる。
仏縁とはそうしたものだ。
11歳の頃、何を求めていたのか?
オール3.出来の良くない小学生の私は、小五の頃、功成り名遂げた老人の言葉にくぎ付けになるような子供でした。
そうしたテレビのインタビュー。その世界での功労者、一流の人のインタビュー。人間の真理のようなものを言い当てている言葉が発せられている。
学校の教師からは決して学べない言葉。
中学、高校へと流れるにつれて、そうしたことは忘れ、出来損ないの受験生に。就活して就職し社会人になってから、原点にもどるように独習。
様々な分野の読書。
リーマンショックで人生のどん底を味わい、そこに11歳のころに追い求めていた真理があった。あなたは11歳のころ、何を求めていましたか?
コメント