事実を知る、ウソに騙されるな
2021年6月。テレビがまたつならない。2011年3月11日以降からもずっと、テレビはつならなかった。
コーユー時期は、裏の画策が進行している事が多い。ウソよりたちが悪いのが隠蔽。嘘も方便という生き方をしたことがない。嘘はついてはいけない。
ウソをつかない生き方はしんどい。だから鍛えられる。ウソをつかない人は書店の中にいる。ウソをつかないとウソを見抜ける。
社会で認められている人は、正直者が少なからず必ずいる。言ったことをちゃんとする人は信用がつくからだ。
ウソのない本があるしウソを言わない人もいる。ウソを言わない現代史の語り手、ウソを言わない記者。そんな人々の語りや文章を知って読むと、ウソに騙されない知恵が身になる。
無料動画番組のyoutubeの中にも正直者はわずかにいて、そうした番組だけが面白い。
信じるものは救われない
初期仏教は現在の最先端の科学でも到達できていないことを知っている。ウソではない。本道の仏教は、「確かめる」ことを伝えている。
「信じるな!」ということ。
何かを、誰かを信じる。信じると不幸になる。だから、「信じられることなのか?ウソがない人なのか?」と検証せよ。
そのためには、自分がウソつきではダメなのです。ウソで汚れていたら、サングラスをかけて、真っ白な画用紙はどこにある?と探し回るようなことになる。
サングラスを外して、裸の目で裸の真っ白を探すしか手はありません。
ウソを見分ける
隠蔽とは、アンフェアーなことを隠す意図が隠されています。面白い事に、ウソをつくと人間の顔はゆがみます。人は怒ると怒った表情になるのです。
ウソをつく人は、「ソレがウソだと知っている」ウソは正しくはないとも感づいています。後ろめたさが心に出来上がる。
ウソ中毒で麻痺している鈍感な人であっても、顔にでる。文章であれば、つじつまが合わないからばれます。
検証する側が論理的で理性的であれば、ウソはそのウソのほころびが分かるので、ウソを見破ることができます。
ウソをつかないからウソがわかる
私は「うそだけはつくな!」と言われて育ちました。決してウソはつかない。馬鹿正直。自分に非があって、ソコを誰かに追求される。
ウソをつけば、簡単にかわせる。ウソをつけば、自分を窮地に追い込まずにすむ。
コーユーことをしない。で、いると、そのように生きてゆくと、ウソをつかない人の人相になる。ウソだらけで自尊心のない人とは違った人に出来上がる。
嘘つきは嘘つき同士の波長で近寄り仲間になるもの。ウソをつかないとウソをつかない人の波長で知り合いになる。
ウソのない人同士でウソを検証できると、ウソの発見の度合いは増します。
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