嘘をつかないと決める

ヴィパッサナー

テーラワーダ仏教の五戒の文では、生き物を殺さない、与えられていないものを取らない、みだらな行為をしない、偽りを語らない、酒・麻薬類を使用しない、という戒めがあります。

瞑想会に参加すると、この五戒の文をみんなで唱えますけれど、だからといって、必ず守る人だけに参加が許されるほどの厳しい会ではありません。

人によっては目標のようなもの。参加する方々に対しては、表向きでも良いから、唱えてみましょう、といったものです。

私の母は嘘をつかないように、と、一般的な母親より厳しく私を育てました。

「嘘も方便」とか「嘘はコミュニケーションの潤滑油」という人がいたりするけれど、こうした人と私は部類の違った人間なんだろうな、と思う事がこれまでにありました。

母の言う「嘘をつくな」というのは、自分にとって不利となっても嘘をつくな、という事だったからです。

日本には裏表の論理というのがあって、表向きの言葉と本音は違って当たり前、という風潮があります。

嘘を使わないということは、裏がないことです。日本で世渡りする上で「変わり者」になることがあります。

堅物と思われる。臨機応変な対応といったことに疎い。と思われることがある。

スマナサーラ長老はyoutubeでの説法で、「嘘は殺人以上に罪深い・・・」といったことを例示されながらおっしゃっています。

ホントにそうだな、と思います。

この年になって、嘘の本質を知ることがあります。

ファッションであったり、髪型やアクセサリーが若いころ嫌いでした。自分を良く見せることは嘘をつくことに似ていると感じていたからです。

比丘になると、出家するとファッションのようなコミュニケーションツールを全て取り除く戒律がテーラワーダ仏教にはあるようです。

若いころの感性は今よりずっと正しかったし純粋だったと振り返ります。

学生の頃には、着るものに全く気を使いませんでした。でも、世間は、身なりで人を判断する。ファッションがいまどきではないと疎まれる。

良く見せるようにと仕向ける心の内側には関心はない。電車の大人の人の私への視線は決して好意的ではありませんでした。

中年に差し掛かってから、これまでしてこなかったファッションをしてみようと思いました。

いつしか、わたくしもファッションのような遊び心を楽しむように変わりました。上下のコーディネート。色味のバランス。流行を真似るのではなく、感性で良く見せる。明るい色のピンクや赤を取り入れる。

すると、私への視線が変わった。

自分という内面は何も変わらないのに、むしろ嘘っぽいのに、表向きの装いで好意的な視線に変った。街で行きかう人の視線。

俗世間に生きる私には比丘の戒律はないから、戒めを犯したことにはならないと思います。

けれど、好意的ではなかった、蔑まれた学生の頃の自分の方が、今よりも遙かに理性的だったと振り返ります。

進歩なんかではない、ただの後退。

世の中の良きことと初期仏教の言う本質論は、全く違う。鋭い。

年を重ねると経験値が高まり、若い時よりも進歩したような気になります。けれど、ソーでもないと思うことが最近増えています。

あなたはどうですか?

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