宗教と言うと、戦後の日本においては、新興宗教を指すことが多いと私は感じてきました。宗教について接したことが無い、信じていない人に宗教の話しをする時のリアクションは、「 新興宗教 」を嫌う感情に似ているのです。
本来は、宗教というのは、パスポートに記載することがあるように、その人の拠り所とする考え方、といった文化のような、出身地のような意味合いのものです。
なぜ、日本では、宗教と言うと、得体の知れない、にわか作りの如何わしいい「新興宗教」として無意識に扱われ、遠ざけられタブー視されてきたのでしょうか?
戦後、日本人から宗教的なものをはぎ取る為には、忌み嫌うように仕向ける必要があったのだと私は考えています。
戦中戦前の日本の現代史を日本人は良く知りません。マスクが掛けられています。でも、海外の人々は知っていて、非常に宗教的な国だった事を。
戦後は、宗教から国民を切り離すのが良い、という考え方があったし、そのようにして、特定の宗教を信じない、国民的な宗教は無くなった。
だから、戦後の日本人は、促しを伴ってそれに無意識に従い、葬式以外は宗教感のないように生活してゆきました。ファッションのように、憧れの流行物のようにしてキリスト教は、生活の場面に色濃く日本の普通の生活に取り入れられてゆきました。
キリスト教があこがれとして無意識に吸い込まれた良い例は大学の偏差値です。仏教系の大学の偏差値はそれほど高くはないが、キリスト教系の大学は多くが偏差値が高いのは偶然ではありません。
神社というものも、中立の立場で、昔の遺跡のようにしては存在してきました。
最近は神社の参拝が静かなブームのようになっていて詳しい人も出ていますけれど、普通の人々は、初詣というものも、全く宗教的ではなく、日本の季節の風物詩であって、祀られているものへの関心は二の次だったわけです。
21世紀の日本人の多くは、「仏教」と言われると、 忌み嫌う部分を内包した「宗教」のように無意識に感じてしまうのだと思います。
私もソーでした。
ところが、テーラワーダ仏教というのは、全然、宗教ではありません。神なるものを設定しないし否定しているのです。信心が必要ありません。ただただ理性的で科学的で論理的で明解です。
この1か月程、考えていたことがあります。
なぜ? お釈迦様であったり仏法僧に帰依する、という宣言をし頭をひれ伏すように慕おうとするのか?
ソコは宗教っぽいし、馴染みにくい部分があるのではないか? 丁寧に説明されるとなるほどと思うけれど、どこかに 理性的で科学的で論理的 に説明のつかない違和感がある。
それは、なぜなのか?なぜ、必要なことなのか?
私はテーラワーダ仏教の関係者ではありません。門外漢。真面目な実践者は日本国中にいらっしゃるので、私の考え方は一笑に付されるかもしれません。
私の妄想でしかない直感で申し上げますが、来世に仏縁を持つために有効だからなのではないか?
と感じたのです。今生で地球に生まれて、仏縁を得て、修行のようにして実践し、第一禅定に達して亡くなった人がいたとします。
その人が、地球以外の生命のある星や次元に転生したときに、 お釈迦様であったり仏法僧に帰依する、という宣言をし頭をひれ伏すようにした過去生のエネルギーの何かで、その新しい生命体でも仏縁を得る、ということがあるような気がするのです。
そして、新たな転生の時点から一直線に、第二、第三、第四禅定を得て解脱できる。ほんとかどうかはわかりません。
ただ、慈しみの瞑想をし、ただ、ヴィパッサナー瞑想をしているだけでは、解脱できない、たぶん。それだけでは、解脱できる縁を得ることが難しいから、有効な方法の1つとして、
宗教くさいんですが、 お釈迦様であったり仏法僧に帰依する、という宣言をし頭をひれ伏す ことが貴ばれている、と考えてみると、合点がいくのです。
来世で 仏法僧 に出会う為に、ソーしておくのが効果が高い、というように考える事は至極自然なことだと思えるのです。
コー認識すると、何か解けて、帰依します、と素直に思えるのです。 ホントかどうかはわかりませんが・・・。
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