弱い者を慈しみ助けるとガンになりにくいというお話

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わたくしがガンになるかならないかはわかりません。でも、還暦を迎えて健康でいます。元気ハツラツというほどではないけれど、サロンに行くと良く「肌がきれいですね」と言われます。

肌は内臓の状態を映す出す鏡のようなものだそう。記憶力や仕事での反射神経や的確な判断能力は衰えるどころか日に日に増しているようにも感じています。

(自画自賛っぽいですね。会社ではわたくしのひとことひとことを拾い上げるようにして周囲が動き出します。上司たちがそんな感じなんで客観的事実です。執行役員から一目置かれた嘱託社員です。)

自己管理の道 ブッダの宇宙生命論と〈わたし〉の人生|スマナサーラ長老の初期仏教法話(Nov 20 2021 由宇ふれあいパーク)で、長老は、「ガンは、弱いものを助ける人はかからない・・・」という意味合いのことをおっしゃっていました。

わたくしは、本を読んで感動したり、人から教えられたわけでもないのに、「弱いものの側に立とう」と決めて生きてきました。理由はわかりません。

両親がケンカをしていると、弱い母の立場になる。エディプスコンプレックスだったのかはわからない。

何かを買う時でも普通とは違った。

たとえば、チョコレートでもコーヒーでもよい。旅先で何かを買いたいとおもうときに、店が近くに2つある。

店構えがしっかりしている繁盛店と看板がさびれたような流行っていない店。どちらも菓子類飲料は売っているとわかる。

すると、自然に「看板がさびれたような流行っていない店」で買う、習慣。

「弱いものの側に立とう」という自分なりの行動規範で考えると、「同じものだから、お金周りの悪いほうにお金を回そう・・・」と考えて買う。

足りていないほうに満たしてあげたい。

こうした考え方の人はわたくし以外いない。とおもっていた。

けれど、三浦綾子さんの小説に、同じようなことが書かれていて、「オレは間違っていなかったんだね」と思ったことがあります。なんの小説か思い出せません。

日本の社会は弱い者に冷たい。どんどん変わった。

子供や赤ちゃんを地域ぐるみで応援していた。よく周りの大人が話しかけて大事にしていました。バブル崩壊後あたりからどんどん変わった。

世知辛い世の中で自分だけで精一杯。

けれど、できることがないわけでもない。

前提としては、自分をしっかり生きる。ソーでないと自分が助けを求める側になる。

そして、無関心にならずに、人を助けようとする。子供、妊婦、老人、障害のある普通の人間。仏教に寄り添いたいならば、虫も害虫も殺さないと決める。

わたくしはまったく品行方正ではありません。ふしだらフラチ。

埼玉県の大宮にまだストリップ劇場があったとき、よく観に行きました。その帰りというのは、すこし後ろめたい、伏し目がち。

その帰路。

大宮駅のホームの端をおかしな感じで歩いている人がいた。予感がした。「もしや・・・」。電車が来た。飛び込み自殺をしようとした。とっさに、ホームの側に引き戻した。

サラリーマンの男性も手伝った。助かった男性は「すみません、すみません・・」と泣いていた。周りの人々のなにもなかったような様子が異常におもえた。

ボランティアのようにして活動をしているわけではありません。グループが苦手で基本孤独。

それから30年を経て、初期仏教に出会い、毎日瞑想をしています。ソレで良いとおもっています。本気の最上の終活のカラチです。

なぜ? 弱い者を助けると健康になれるのか?

わかりません。自然法則、宇宙法則がソーなんでしょう。

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