志村けんとキャラクター

読書とその周辺

志村けんだけが面白い

2021年8月21日深夜、寝付けずにテレビをつけると、志村けんさんの特集。前回も書きましたけれど、録画しても絶対見たい番組を1つだけ挙げると、それは、志村けんさんのコントでした。

ドリフターズの当時、荒井注さんがいなくなって、知らない若手の志村さんが登場。ドリフの一員と突然に言われても、家族団らんの円卓に知らない人が座って食事をしだすほど、違和感を感じました。

会場の観衆にもウケないし、テレビを見ている自分にも違和感があった。ウルトラマンが怪獣退治中にケガをして、中の演者がウルトラマンのスーツのジッパーを開いて、選手交代したとする。

抜け殻のスーツを別な人が着て、そこから「用意スタート」と言われても、一部始終を見ていれば、冷める。「な~んだ、中に人が入っているのか・・・」という覚醒気分と、2人目は偽物のウルトラマンに思えるからだ。

夢の中に一緒に入る。志村けんさんと観衆が同じ夢を共有する。それができ、続いたから、知らない人が、だんだんと、家族団らんの円卓で受け入れられた。

笑いの普遍性とは?

話芸とコントはクラシック音楽とクラシックバレエの違いと同じ。人間の動きは万国共通。身体と感情は連動していて、その体の動き・形はどのようなこころの状態かもホボ人類共通。

ヨガのポーズでストレッチ効果が誰にでも平等に得られることと同じだ。

話芸、落語でも講談での漫才でも漫談でも、言葉で笑いを誘発させるには、概念と歴史と文化などの制約がある。

文化がおなじ日本人同士だから、日本の会場であれば、ドカンと爆笑の渦になる。けれど、異文化ではソーはならないだろう。

コントは、身体に密着してる。文化よりも内側にある。志村けんさんは、いつでも普遍性=万国共通で大笑いできるコントを追求した。

ターゲット設定しない

子供から老人まで一緒に笑えるコメディー。昭和生まれと平成生まれ、令和生まれが一緒に面白い。家族がいても孤独でも、一緒に面白い。

そんなことができると思うだろうか?

志村けんさんは1950年生まれで戦争を知らない世代。簡単にはチャップリンと比較できない。志村けんさんは貧しい家庭に生まれてはいない。

師匠のいかりや長介さんから学んだに違いない。スケール感。

ネットビジネス盛んな現在、マーケティング思考は盛ん。ターゲット設定せよ!と言われる。船井総研創始者の船井幸雄さんは、商売にあっては、女性をターゲットにすることを提唱されていました。

今の21世紀の商品でもサービスでも、志村けんのスケールには及ばない。

志村けんさんはメジャーだけを意識していたのだろうか?

マンネリ、飽きない、全力

同じことの繰り返し。マンネリとは悪い評価の判定。ダチョウ俱楽部のお決まりのネタ。おでん熱い、帽子たたきつけ、熱湯風呂突き落としなどなど。

オチがわかっているのに、知っているのに笑える。

志村けんは、演者が飽きてはいけないとダチョウ俱楽部を叱ったという。面白いから続けることを促した。

本気で新鮮に全力で、マンネリネタをする。ウケた。

私は、本気で全力でやるからウケるだけなのではないような気がしている。

幼児性への暖かいまなざし。

赤ん坊が天真爛漫にしでかす。それを周りが見守っている。

ダチョウ俱楽部の上島竜兵の演じるキャラクターにも志村けんの演じるキャラクターにも、幼児性が必ずある。

赤ちゃんを観る大人へと、気づかないうちに観客は誘導される。赤ん坊のしでかしをぬくもりある目線で笑う。

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