小学生の卒業文集で、「思い出」をテーマとして作文したことを思い出します。小学校の良き思い出を振りかえり、これからもたくさん良い思い出を作りたい、といった内容だったと振り返ります。
ヴィパッサナー瞑想をしていて、なにげに感ずることは、思い出に浸らないように制御できるように変わったことです。
それまでは、たとえば、母の付き添いで通った総合病院の看板を見ると、まだ、母が外出して病院に通院できた頃と自分の有様を懐かしく、そして、切なく、思い出に浸ることがあった。
こうした文章を書いていると思い出すのですが、浸らない。過去のことは終わった事、その妄想は心を汚すので、意味が無いとわかってる。
大学を卒業して社会人となってからも、大学生の頃の自由で陽気で友人ばかりに囲まれていた頃が懐かしく、キャンバスを訪問して思い出に浸っていることがありました。
楽しかったこと、うれしかったこと、充実していたこと、しんどさを乗り越えて頑張ったこと。
過去のこうしたことの積み重ね自体が思い出になります。
小学校の卒業文集で思い描いた人生模様は、死を前にした人生の振り返る様を想像していたように思います。
ヴィパッサナー瞑想を知らずにいたならば、良き思い出を作れてよかった、といった人生で終わったように思います。少しは小学生の自分よりも改善したのでしょうか。
今だけに集中する喜びが少しわかった気がしています。
いまは、大学のキャンバスに行って昔を懐かしみたいという思いが無くなりました。母と病院に通院したこと、まだ元気であった母を思い出して感傷的になることはホボありません。すぐに忘れる。妄想しない。
ソコに人生はないからです。
初期仏教では過去も未来も人間の作った幻想だと言います。
まだまだ、幻想が離れないけれど、妄想しないように自然に切り替えられるように少し変わったと思います。
俗世間は妄想で作られていて、妄想で仕事をし、妄想に付き合いながら生活してゆきます。妄想にお付き合いをある程度しながら、働いて稼いで生活をつくらなければなりません。
妄想を妄想と気づかない人々と、少しわかってきた自分には差異が必ずできる。ソコで悩んでも意味はない。
ヴィパッサナー瞑想で自然に心が強くなると耐えられる。耐えようとしないでも耐えている。意志で耐えるんではない。
考えない、悩まないから耐えられる。
妄想の俗世間で生きる為には、ある程度の法則性も知って、予兆に備えることも重要だと私は考えています。
今回の紛争で私の国が武器供与のために支援することには反対。殺生してはダメだからです。蚊もゴキブリも人間も、同じ命ですよね。人だけクローズアップするわけにもいかない。
いまだに私は、蚊やゴキブリが苦手で嫌いです。人の殺生には大きな大きな感情が付きまとう。
だからって、怒ることはできない。悪行為ですよね。他人の心は管轄外です。
食べてゆけるだけの備えをして、生活の大転換もあり得ると思っています。右往左往するんでしょうけれど、「大変だあ!」とはなるべく思わずに、平気で変化に対応するつもりです。
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