世の中で流行っている「終活」と言われているものに、ほとんど興味がありません。今よく言われている「終活」って、幼稚園→小学校→中学→高校→大学→就活というコースの延長線にあるように私は感じます。
「定年→終活」という、これまでになかった、コースが増設されていないでしょうか?
誰も頼んでいないのに、エスカレーターが足元にあると、何だかやる気、すべき事(≒仕事)があるような気がする。
仕事というと、会社に入社してサラリーマンとなって給与を頂く働き方や自営業で働いて稼ぐことのように思ってしまう。
けれど、たとえば、絵を描くことも仕事です。
本業の画家が描くことではなくって、好きで始めた絵画。その絵画を作成する中での試行錯誤の一筆を、私の絵画の師匠は「しごと」と言っていました。「いい仕事をした・・・」というように。
趣味ではない。お金にならない。でも「美」を追求する過程は「しごと」。
戦後の日展で、最年少の入選となった事のある、その油彩画家の私の師匠。本業は学校の教師。日展入選当初には、プロレスの力道山に出会ったり、小説家の武者小路実篤氏宅に呼ばれて訪問したことがある。
全盛期には内閣総理大臣賞を受賞したその教師の絵かきにとって、絵画はしごとでした。副業というのでもなかったと思います。
むしろ、食べてゆく、家族を養う保険のようにして本業をされていたのかもしれません。
何をどうして良いかという思考の巡らない方であれば、道しるべのようにして「終活」に乗っかることは悪くありません。
個人的にも、終わりまでに生きてゆける生業は有る方が良い。と思います。
毎年同じような季節に梅を愛でて、そののちには桜を喜ぶ。同じように感じます。
けれど、実は、梅も桜も咲き方は毎年変わるし咲く時期も違います。見ている自分自身も1つ年をとった。人の思い「また、同じ桜が咲いたな・・」とは違っていて、現実はいつでも一期一会。
シニアになると、病気にかからないように気を付けるけれど、病気にかかる時はかかる。ガンにもなってゆくだろう。終わる準備をしても、すべてを放り投げるでなくとも、どうにもならない事はあるだろう。
もっとも有意義な終活とはどのようなものなのでしょうか?
私は、人の、自分の、死に際こそが人生で最も大事だと考えています。
人生で何に挑戦し、何を得たということは些細な事です。些細な事とは、起業して成功した、とか、家族を得て幸せな人生だった、ということや、資産が豊富にある、といったようなことなどです。
世の風潮とは真逆なんでしょうけれど、業は法則であり、お釈迦様も”業はどうしようもない”とおっしゃっていました。
俗世間での社会通念では通用しない業(カルマ)の法則はあります。因果法則。例えば1つ、過ちを犯したら必ず自分に返ってくる。それがいつ誰を介してどのように返るかは誰にもわからない。
殺されることは、カルマ。自分に返ったのです。
死に際ではたぶん、人生での出来事や財産や人脈や成功体験といったあらゆるものがはぎ取られて、裸の、むき出しの自分に出会います。(個人的な推測ですが)
絶対的な孤立感と孤独感と心の実力ただ1つ。
人体から離れる瞬間までの死に際の右往左往が今回の人生の結果であり本体の本性の全てです。(個人的な見解です)
人間の死には例外はなく、孤独死以外ありません。(スマナサーラ長老のご見解です)
その際(きわ)で、落ち着いておくためにも、日々のヴィパッサナー瞑想はあるのです。
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