慈悲の瞑想をする意義とは?

ヴィパッサナー

私は、仏教徒というよりも、もっと世間寄りというか不埒な人間です。なので、核心的な事も考えられないし、間違ったことを語っているかもしれません。

慈しみの瞑想というのは、慈悲喜捨の4つの心の状態をとても簡単な日本語のフレーズの言葉を唱えて近づけて、慈悲のこころへと状態化する瞑想だと思います。

何年も前から知っていましたけれど、毎日唱えるようになったのは昨年からです。一生懸命に唱えるようになったのはこの数か月くらいです。

なんとなく、じんわりと心に浸みてきて、朗らかなこころになる。

この1週間ほど前に、テーラワーダ仏教協会の正式なyoutubeで、スマナサーラ長老が、「生きとし生けるものが幸せで有りますようにと瞑想する時に、前方へ果てしなく思いを行き渡らせます・・」とおっしゃっていました。

前方と言うのは、地球的な規模での前方のことです。自分の目の前の生きとし生けるものをすべからく、延々とどんどん突き進めるようにして、意識を前に進める。

地球のあるいは、宇宙の果てまでもどんどんと。そうした気持ちでやってみました。どんどんと自分の心を前に前に広げてどんどん広がって進むイメージ。

すると、眉間の辺りが何とも言えず弛緩するような解放されるような穏やかな感じを実感しました。少し話しが変わります。

なぜ?慈しみの瞑想をするのか?

というと、人のセイにせず、しっかりと、きっぱりと自分事としてヴィパッサナー瞑想に集中するためです、という意味のことをスマナサーラ長老が何かの書籍で書いていらっしゃります。

初めて知りました、そして合点がいきました。ただ、やさしい慈しみ心を作るのではない。心の揺れや苦しみを人や過去や自分以外の何かのセイに無意識にしていると、ヴィパッサナー瞑想に集中できない。

人や過去や自分以外の何かのセイをセイから無くす。誰のセイでもなくするために、慈悲喜捨の4つの心の状態が不可欠なのだと私は合点がいったのです。間違っていたらごめんなさい。

ターゲットを氷山の存在感に例えます。誰かのセイの氷山があると自分の心の氷山1つに集中できないので、慈悲の瞑想で自分以外の氷山を溶かす。

すべての原因と問題解決の標的をただ1つ、自分の心に照準を合わせる為には、どうしても他者の全てを慈しむことが必須なのだと感じるのです。

逆に言うと、慈しみの心を育てずに、ヴィパッサナー瞑想だけをしてみても、どこかでつまずく。

なぜならば、すべての原因と問題解決の標的をただ1つ、自分の心に照準を合わせることができないからです、たぶん。

ヴィパッサナー瞑想がなかなかうまく行かない場合は、サーマル(サマディーかもしれません)が作れていない、とどこかでスマナサーラ長老はおっしゃっています。

サーマル(サマディーかもしれません)とは慈悲の心のことだったと思います。

上記のようなことを少しわかってから何かが変わったように感じています。

いつもは座るヴィパッサナー瞑想は、時計を気にしながら、決めた時間になるまで行ってきました。何か義務感のような修行のようなゆとりのない感じ。耐えながらじっとしている。

楽しみながら瞑想をする。少しだけ、そのように楽しさから瞑想をしてみました。

ウキウキした気分で明るい気持ちでヴィパッサナー瞑想をする、「ふくらみ、ちじみ」の感じに浸ると、あっという間に時間が過ぎていました。

うまく瞑想に入れると、疲れがない。疲れが無くなっている。

このようなことを今週は感じてきました。今月、瞑想会に参加してからの試行錯誤の成果なのかもしれません。単なる錯覚なのか? 間違っていたらごめんなさい。

「真理を守る」ためにウソ偽りを避ける、ということも学ばせて頂きました。では、また。たぶん、また明日。ごきげんよう。

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