批判精神と順応と

ヴィパッサナー

虚構の中で生きるということ

参議院選挙が終わって、予測していた通りに大きく舵が切られたという感覚が私にはあります。過ちの拡大の連鎖。

なるだけ今生に執着したくはないけれど、バイアスに捉えられて誤りたくもない。政治に感心は大有りですが俯瞰して深入りはしない。

無関心というのは慈しみの真逆のベクトルです。他人に無関心では居られず、愛おしく思える。無条件で慈悲の気持ちになれる心と無関心だから心がざわつかないというのは全く心の置き場が離れている。

なぜならば、仏陀は全体幸福を望まれた末に真理を発見しているからです。

しっかりと、惑わされず、騙されずに静観しておくことも大切なのだと思います。出家していないし在家というほど心酔もしていない。中途半端です私。でも、半端を許容できているのは弱さではないと感じます。

今、立っている地点から、可能で、あるべき人間とはどのようなものか?と問いながら、真理にも関わりつつ、巻き込まれる時代の流れの中で、ただ流されるのでなく、独自の孤立した気づきをもって解釈しておきたい。

順応とは何か?

拝金主義の営利主義の会社に所属し、その馬鹿げた方針や目標に順応しています。生き残りをかけた戦いという幻想に閉じた会社の人々の中にあって、同調共振しながら演者のように振舞う。

そこに善悪はない、と思います。ただし、決して人がしてはいけない仕事はある。狩猟漁殺業も原発もアルコール製造・販売も初期仏教では禁止。ブッダあるいは正覚者がおっしゃった、おっしゃるのだから決してしてはいけない。ロジカルに考えるとわかる人にはわかる当たり前。

それに限る事なく人間の限界、仕事とは本来の在り方に至らず、ホボ悪でしかないとはわかっている。ではあっても、そんなに悪い事をしているのでもありません。

ギリの許容範囲で、会社に求められながら仕事をしてゆきます。”馬鹿げた方針や目標に順応しています。”という意味です。

「こんな事で評価されるのか?」と思いながら、求めに応じる。ただし、脅しに乗っからない。自分より立場の弱い同僚を脅かさない。

悩まない

初期仏教に出会っていなければ、相当に悩み苦しんでいたと想像します。というか、出会う前までは、ソートーに悩み苦しんできました。

初期仏教で慈しみの瞑想を知り毎日実践してゆくと、害虫も殺せなくなります。徒歩中、地面の小さな虫を踏まないように気づかう。

自然にそうなった私は。あなたはどうですか?

日々どんどんと心が清らかになってはいない気がします。

でも、大きな大きな真理を少しわかった。

だから、ホボ悩むことはなくなりました。日々課題「どうしようか? こうだろうか?あーだろうか?」という試行錯誤は必ずある。

けれど、真理を知った。

あることはわかった。

だから深い悩みにならないのです。自己鍛錬しかないのです。

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