本題に入る前に少し。
Evernote(エバーノート)という何でもメモなどできる備忘録に最適なツール、サービスがあります。私は、通勤中にアイデアがひらめくと音声入力したりして使用しています。
Evernote(エバーノート) を使用して1年程度経つと、一気に使い勝手が悪くなりました。フリーズして止まる。こうした体験者はかなり多いのだと思います。テキスト入力が遅い。
こんな時に、課金サービスを利用する方法もある一方で、無料で便利に使うこともできます。スマフォのメモ機能を利用します。
メモ機能に音声入力などでテキストを入力して保存する。ローカルなのでノーストレスです。そこから全選択してエバーノートにコピペすると、ノーストレスでエバーノートの利便性を活用できます。スマフォから瞬時に自宅パソコンにテキストも動画も写真も移動できます。
では、本題です。
愛とは何か?恋愛でも無い、夫婦愛でも無い、親子愛でも無い。
キリスト教であったり、何かのドラマや歌の歌詞や小説やらに、登場する「愛」ではない愛のようなもの。
対象に執着していない本物の愛って有り得るのか?慈愛とか慈悲心といった事を考えていたのです。
行と列が5つで、1から25の数字が並んだパズル。この状態から、どこか一つを取り除くと、パズルゲームが楽しめます。
バラバラに数字を埋めて、そこから、右上に1、その右に2と整列させてゆく。
25箇所の内、1つだけ空きがあるから、他の数字を移動できますよね。
この、空いた所、スペースが慈愛であり慈悲心だ、と直感しました。
誰かを助ける”行為”では無い。対象(例えば、子供)に向けられた機敏な動作(”行為”)や”能力”では無い。関係性にもない。死でも無い。確かに有るが、スペース。状態だけがある。
スペースがあるので、自由に動き回れる。が、周りは、スペースがあるから動く自由がある。
電車で席を譲るのは、慈愛や慈悲心の1つの現れ。車を運転中に、お先にどうぞ、と譲るのも、愛というより、慈愛や慈悲心からだと思うのです。
何か目標を設定して”獲得する”こととは、全く違う。
ドライブ中に「お先にどうぞ!」することで、同乗者に「やさしい人」と思われる目的があるのであれば、その心は慈愛でも慈悲心でもないのだと私は思います。
待つ。
という状態も、慈愛や慈悲心だと思います。許すから、待つ訳です。
慈悲の瞑想では、私が幸せでありますように、と、唱えますが、幸せでない地点から幸せな地点を望むのでは有りません。
良い日本語が無く、どうしても、このような表現しかないから、であって、何かを獲得したい言葉では無いのです。
なぜならば、慈悲とは状態(境地)だからです。パズルのスペースも状態です。(今回の記事内容は、私の個人的な見解であり、協会などとは一切関係ありません。私見です。)
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