子供の頃、遊ぶ友達によって影響を受ける子供でした。良い子と遊ぶと良い子のようになり、悪い子と遊ぶと悪い事をする。
ソーしたことを近所のおかあさんから私の母に話しがされて、それを母から聞かされたことを覚えています。
3つ子の魂100まで、ということわざがあって、未だに影響を受けている気がしています。本から受ける影響について少し。
便通が良く、起床後に必ず毎日トイレで用を足す。そのときに必ず本を少し読むことが日課。
資格試験の勉強をしていた4年前は、ソコで問題集を解くことから一日を始めていました。
とにかく合格しなくてはならない!
ならば、絶やさず勉強すべき、では、どこでやる?
仕事があって忙しい日々の中でソウ問うと、出勤の電車からではなくって、自宅のトイレから始める、となったからです。電車でも勉強は基本。とにかく試験勉強を怠けない、前に進めることを絶やさない。
この習慣は功を奏しました。
国家資格に合格後は、好きな本をこのトイレタイムで読んでいました。
で、気づきます。
トイレタイムで読んだ本で、その日が変わる、と。
その本に寄った感覚で生活するようなトコない?、と。
本によって、影響を受けている、影響を受ける体質は、子供の頃のまま。
その事に気づいてからは、スマナサーラ長老の書かれた冊子や本を、朝いちばんで読むことに決めました。先月から始めています。
なぜならば、仏教の神髄を頭に入れて、そこから日常生活に入ると、どこかで、朝読んだ偈(げ)を思い出して、振り返り立ち止まり、意識することができるからです。
たとえば、
人に語る言葉はその聞く人にとって「宝物となるような言葉」を語るようにしてください。
というお言葉を読んだ日には、何か普段使いの言葉を話すと、「全然宝物の言葉じゃないじゃんか!」とフト気づきます。改めようと。
当ブログには書評や読書に関する記事がありますが、初期仏教関連以外の書籍は、貪瞋痴の世界に閉じています。
世の中で言う頭の良さと初期仏教でいるソレはかなり違う。
覚者の言葉と覚醒していない人間の言葉は質が全く異なるのです。読んでいてそんな感じが少しわかります。
人格向上の役に立つのか立たないのか?
速読法というのは、貪瞋痴の世界に閉じています。だから、大したことでもない。
ただし、日常の人間の世界での知識は無いよりあったほうが良いし、振る舞い方がスマートになるほうが、今の私の好みに合う、それだけです。
生活の糧を得ることばかりの人生よりも、本が買えて、静かに思考や瞑想できるほうが、今の自分の好みに合う。貪瞋痴の私の好みに引っ張られると危うい世界に深く嵌るので注意が必要とも思います。
読書の罠。
ってあるような気がしています。
速読法を育み、貪瞋痴の世界に持っていかれるのも本末転倒。そうした誘いが速読法自体にはあって、速読法と欲がリンクしてしまう危うさは確かにあるような気がしています。
だから、朝いちには、初期仏教の釈迦牟尼仏のお言葉やスマナサーラ長老のお言葉を拝読するのが良いのです。
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