父が突然に亡くなったのは2009年。リーマンショックの影響でシステムエンジニアの仕事がなくなって、やっとの思いでたどり着けたアルバイトの初日。母から「おとうさんが亡くなった・・・」と電話で聞いた。
着信は知っていた。でも出られない。仕事の初日には教わることがある。
昼休みに外から母に電話して知りました。すこし空間が歪んだ感覚。上司に申し訳ない思いで告げて退社。
父の死は何かに似ていました。
「この感覚は何なのか?」
大げさな悲しみではない。アフリカでの大量虐殺のときに感じた怒り・虚しさ・悲しさ・やるせなさと似ていた。
父が亡くなってから夫婦仲の決してよくはなかった母は、「おとうさんはおかんさんをホントは愛していたのかも・・・」と言うことがありました。
遺族年金で不自由なく幸せに暮らしていた頃の母からのことば。そんな幸せが5年くらいあったでしょうか?
いまから7~8年まえから、母の病院の通院に付き添いました。
骨粗鬆症の整形外科、翼状片(よくじょうへん)の眼科、口腔外科の歯科。多いと週に2回付き添いました。
3年前から老人ホームに入居してからも、整形外科の付き添いをし、皮膚科の付き添いも毎月してきました。移動はタクシーから介護タクシーにかわった。母は脊椎の骨粗鬆症で車の振動が痛む。
介護タクシーの運転手さんに注文をしながら、やさしい運転で歯科や整形外科に通ったのも良き思い出です。
2年くらい前から、介護タクシーにも乗れなくなった。老人ホームの訪問医療を受けるように変わります。
付き添いしなくてよくなった。けれど何かがしたい。
「便秘に良いからバナナと納豆とヨーグルトが欲しい・・・」という母のリクエストに応えて毎週、兄とわたくしが交互に母に買い出し老人ホームに届きました。
コロナになってからはホームのスタッフに手渡して。
その買い出しがいらなくなったと兄から聞いたのが先週の火曜日。コロナで入室できない母の居室に特別な計らいで兄が入室。介護スタッフ3人でも収まらないほど抵抗する母がいたと聞きました。
母はとうとう認知症にかかったと知りました。
最近届けた買い出しの食べ物を食べずに放置していることもわかった。介護スタッフと直接電話で話して、買い出しは不要だと納得。
今年の夏までに何度か母と面会をしています。わたくしの話を聞きしっかりと返答していた。10月、車椅子から滑り落ちた時から急に様子がかわったようです。
3月に母の携帯電話を変えました。ソレからなかなか電話にでられない母。
同じ機種のあまり変わらない携帯電話は、母にとっては大きな違いがあって使い方がよくわからない。電話の会話も極端に減った。
老人ホームではテレビ視聴くらいしかすることがない。
「本や週刊誌や新聞は?」と問うと「さいきん首が痛くて読めなくなった・・・」という母。そして先月認知症。
よくがんばったと素直に思う。
介護スタッフさんには悪いけれど、ココまでがんばったのだから、いま認知症になってもモー十分、というおもいがわたくしにはあります。 映画:ぼけますからよろしく。
フツーには、ほんとうの母、といったものを思い浮かべるような気がします。認知症になるまえのしっかりしていた母のこと。そんな思いがないわけではありません。
幼稚園に入園する前、手作りのプリンを作ってくれた母。大学受験のときに陰でお百度参りをしていたという母。
毎月車に乗せてわたくしの撮影旅行を隣で楽しんでいた母。
コーした母は、そのとき限り。
時々思い出す母との確かにあったふれあいの感触はモーありません。
母というものは最初からないのではないか?
そんなことをフトおもいます。いろいろな条件が重なって見えている、聞こえている、感じている。
母もわたくしも常に変わり続けているからです。
子供の頃のわたくしの写真のそのころの子供はいまの私ではない。あのころの確かにあった、あの母はいまはない。いや、最初っからそのときだけにあった。
人間も流れている。滝のように。
父の時よりなるだけ、悲しまないようにしようと思っています。
怒り・虚しさ・悲しさ・やるせなさ。
といったものに疎遠になって平静でいようとおもいます。
初期仏教を無常をすこし知ったのだから。(執着の捨て方。 生まれることにも死ぬことにも生きることにも意味はない。)
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