混乱の時代だから根本

ヴィパッサナー

真理はあるのかないのか?

新宿御苑にある小さなソフトハウス。そこに派遣されてA〇の携帯電話のアプリを開発していたことがあります。200人規模の小さな中小企業でAUの最新機種の携帯を作っている。

技術はあるが、なかなかうまく行かない。開発工期が伸びている。そんな時期に応援として参入。夕方から出社して朝帰宅。

延々と仕事をしている若手社員は顔色がどす黒い。会議室には寝袋。課長は自席で時々いびきをしている、寝ずに連日会社に泊っているからだ。

昼には奥の室で、A〇の人の怒鳴り声が聞こえる。開発の遅延でご自分の立場も危うくなるからなのだろう。

修羅場。

私は、繰り返しテスターとして携帯機能の試験をしていた。ソフトの修正がされるとそれまで正常だった機能がおかしくなることもある。

仕事の難易度は高くはない。でも人間としての生活は奪われていた。機械のようにして働く。そんな夜中、何かの昆虫が部屋に入り込み、目の前で羽を休めた。歩き出した。

しばらくして羽を広げ飛び立った。

オートマチック。

自立している、自由があるのはオレよりあの虫だな、と思った。

生きる意味はありません

その頃はまだ初期仏教に出会っていない。それでも、真理って何だろう?ということはいつでも頭の片隅で考えている習性が私にはありました。

本を読んだり、思索しボーっとするのが自然体。なので、徹夜勤務や長時間労働は決してしたくはないタイプ。

将来性がなくなったと判断、好きだった写真屋の仕事を辞め、キャリアのあったソフト開発の仕事を生きるためだけでやっていた。

喜びも希望も展望もない。

ただ1日1日を生きてゆくだけで精一杯。辛いが落胆していない。ただ、虚しい。

ソコから10年後、テーラワーダ仏教を知る。真理を発見した喜び。なぜ世界はめちゃくちゃで、日本の企業の中も修羅場なのか?

納得しながらわかりだした。人間はそもそも貪瞋痴の世界しかわからない、無限ループを繰り返すのみ。社会的に意味があることも、仏教的には馬鹿げたこと。

そんな明快さが痛快で、無意味と知ってホッとした。

ほっておく

自分自身はしっかり生きる、生き抜く。

人への正しさの強要はしない。

社会の中で理不尽なことをする人は必ずいます。一見正しそうに思えることもある。たとえば平和活動。

ジョンレノンのイマジンの歌詞のように世界が平和になったとします。素晴らしいことだとは思う。

けど、その平和を壊そうとする人はいるし、新たに出てくる。必ず。対立せざる負えない。

結局、平和を維持するという我=執着で人は幸せでいられない。だから、破壊行為が良いわけはない。盗みや殺すことはいけない。

慈しみがソコにはないから。

敵対する人を慈しむ。それには、ほっておくことがベストなことが少なくはない。

真理はあるし方法論もある

初期仏教で人間のなんたるかを知ることが出来なかったら、今の私はかなり退廃的で絶望だらけの腑抜けだったと思います。

真っ当な生き方はあって、どのように心=人間の本体を発達すればよいかという改善プログラムは確立され、伝承され、阿羅漢が生まれています。この日本でも日本人で修行されて終えて、阿羅漢の方がいらっしゃる。

ヴィパッサナー瞑想をすると、客観的に自分の妄想を知ることができます。何事にも集中して取り組めるので脳も活発化してゆく。

実は、ヴィパッサナー瞑想は脳の機能で回路を作る出すので、痴呆症にならない脳を育むとスマナサーラ長老はおっしゃっています。

現在最新科学よりも認識分析に優れている。いまだ科学では解明されていない部分が初期仏教ではすでに解明されている。

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