満員電車なら慈しみの瞑想をする

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通勤でも休みの日の電車に乗る時でもカバンに読みたい本を必ず入れています。けれど、強引に本を取り出して読むことはしません。ぎゅうぎゅうの満員電車で本を広げる程には困っていません。

最近は良く電車が混むので本を広げる時間が少ない。そんな時には目を閉じて慈しみの瞑想をしています。テーラワーダ仏教では慈悲の瞑想と言います。

私は幸せでありますように
私の悩み苦しみがなくなりますように
私の願いごとが叶えられますように
私に悟りの光が現れますように
私は幸せでありますように(3回)

私の親しい生命が幸せでありますように
私の親しい生命の悩み苦しみがなくなりますように
私の親しい生命の願いごとが叶えられますように
私の親しい生命に悟りの光が現れますように
私の親しい生命が幸せでありますように(3回)

生きとし生けるものが幸せでありますように
生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように
生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように
生きとし生けるものに悟りの光が現れますように
生きとし生けるものが幸せでありますように(3回)

」知ってやりだした頃は、いつのまにか、何かを考えて居たり、気持ちが慈悲に向かわずに続きませんでした、私は。

もともと人間の心には慈悲の要素がないんだそうです。人間のOS(原始脳)には慈悲がない。ソコで自分をまず慈しむ。そして親しい家族や恋人などを漠然とイメージして慈しむ。それから、生命すべてを慈しむ。

始めた当初は、何も変わらない感じ。慈しみの瞑想をしたとしても1日1回でおしまい。昨年からは、毎日するように自分に強制しています。

自宅から駅までの間に終わる日もあるし、駅のホームで思い出したように始めることもあります。今の自分を肯定するために他人を責める感情があると、たぶん、人格が向上しないのだと思います。

だから、人を責める感情を減らし、今の自分の境遇や性格や問題を自分の責任に向かわせるためにも、まず自分を慈しみ、そして親兄弟は配偶者や子供を慈しみ、最後に人間や動物や昆虫やらをひっくるめて慈しむ。

意味不明なマントラとは違っていますよね。しっかりと意味が分かります。どんな人にも悩み苦しみがあるという前提があって、それを無くなるように祈る。自分だけが苦しいのではないと言い聞かせるとだんだんと感じ取れるようになるのだと思います。

正直、面倒くさいと思う日もあります。刺激的だったり奮起するようなフレーズはないです。偶然居合わせた良く知らない電車の中の人に向けて、「悩み苦しみがなくなりますように・・、願いごとが叶えられますように・・・、悟りの光が現れますように・・」と心で念じてみても、言葉が心から浮いてしまっている感じはあります。

本気で心底力強く確かに念じているわけではありません。ただ諳んじているわけでもないけれど、義務のような、修行のような感じで、お勤めのような感じで唱えています、私は。もちろん無言で。

明らかに何かが変わった、という感じはしていないけれど、怒らなかったり心配しなくなったり、人を批判的に感じたりはしなくなったように思います。少しですけれど。

何か人を批判的に思う感情が表れたら、「妄想、妄想、妄想。」とラベリングするとすぐその感情が消えるようにはなりました。

仕事帰りで疲れていても、電車が混んでいる時には、「じゃ~慈悲の瞑想するんべ~か~」という感じですることもあります。朝よりも爽快感がないんですけれど、修行のようにして。

慈しみのこころを作らないとヴィパッサナー瞑想で集中できないと言われています。ヴィパッサナー瞑想はかなり難しいけれど、慈悲の瞑想だけでも表情が変わるくらい心は成長するようですから、ぜひ、あなたもしてみてください。

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