瞑想と言うと、何か理想像であったり実現したい将来の自分を思い浮かべるようなイメージがないでしょうか?
テーラワーダ仏教で実践するヴィパッサナー瞑想は、そうした「瞑想」ではありません。
まず、自分、親しい人、他人、嫌いな人、自分を嫌っている人に対して、慈しむようにして、慈しみの言葉を繰り返し、心の状態を明るくする。
それから、背筋をしっかりと伸ばして、怠惰な眠気を寄せ付けない緊張した姿勢を作る。その姿勢から、歩く瞑想をする。
右足を上げる、運ぶ、下ろす。左足を上げる、運ぶ、下ろす。回る、回る、回る。といった事を繰り返し、ひたすら、考えずに自分の感覚に集中する。
座る瞑想では、腹式呼吸をする。下腹部が縮む、膨らむ。その感覚だけを感じるように集中する。
詳しいことは日本テーラワーダ協会のyoutubeで公開している動画があるし、書籍も多数出版されています。
人は例外なく、ヴィパッサナー瞑想のようなことがしたくありません。
人は例外なく、 他人、嫌いな人、自分を嫌っている人に対して、慈しむような気持になりたいとは思いません。
人類が生まれ持った心は貪瞋痴である、というのがテーラワーダ仏教による人間の見立てです。
ヴィパッサナー瞑想 を続けていくと、私の場合は、通勤途中で歩く瞑想をしていると、前の人の歩き方がおかしいとか、変な鞄だな、とか、そうした自分の気持ちが良くわかるようになりました。
ヴィパッサナー瞑想をする前には、気づけなかったと思います。
「なんて自分の心は汚れているのか?」と驚くほど、色々な心が現れては消え、また、全く違う心が現れては消える、こうしたことが良くわかるようになりました。
そして、そうした暴走する心をほったらかしにせず、気づいて、「妄想、妄想、妄想」とマーキングすることで、汚れた心が1つ消えます。
最初にお話しした、「 何か理想像であったり実現したい将来の自分を思い浮かべるようなイメージ 」といった瞑想とは全く違うんです。
汚い自分の心を目の当たりにしても、落ちこんだりしません。
貪瞋痴 ではない脳の回路で認識しているからです。
全く、貪瞋痴から離れてはいないけれど、少し貪瞋痴から離れている。
座る瞑想中は決して動いてはいけない。そして、何かを考えてしまったら、すかさず、 「妄想、妄想、妄想」とマーキングして妄想を止める。
こうした事を続けてゆくと、どのような事でも集中力が高まります。何かのパワーが欲しいとは思わないし、不思議なことは起こらない。ただし、瞑想実践をしっかりやるといずれ、前世を見ることはありようです。
ヴィパッサナー瞑想をすることこそが、人間のできる最高の善行為である、ということが最近すこしわかったような気がしています。
「人を助ける事や悪政を正す事の方が正しいに決まっている!」というような認識から、もっと広がりのある真理はあって、「自分とは錯覚でしかない。」ということに気づく事の方が真っ当だと感ずるように変わったのだと思います。
何事にも集中できるように変わるので世の中を生きるのがラクになります。本人が気づかぬ間に、仕事も、いとも簡単にできている。
実は、欧米で人気のマインドフルネスはアジアで生まれた初期仏教のヴィパッサナー瞑想の要素を取り入れています。
けれど、決して、 「初期仏教のヴィパッサナー瞑想の要素を取り入れています。 」とは彼らは言いません、とスマナサーラ長老は言っています。
なぜ?逆輸入の不完全なものを選ぶのでしょうか?
本家は日本に在住され日本語で、驚くほどのエネルギーで教えてくれているのです。
コメント