金メダルと高田純次さんと

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気持ちが強いことは良いことか?

文化勲章受章者の作家で僧侶の瀬戸内寂聴さんは数年前、東京オリンピックに反対されていました。復興されず被災した方々がいるのに・・・という理由。

へそ曲がりの私は、その数年前の寂聴さんの言葉に画面に向かってツッコミ。

「それじゃ~戦争終わってない人もいるし、不幸なひとは常にいるから”世界体育祭り”やその他の祝い事もできないや・・・」。

オリンピックって昔っから今みたいではなかったハズ。飛行機以前。わざわざ船で集って競技したのだろうか?

いま当たり前に思っているオリンピックは、かなり特殊な祭典だと思う。わたくしの子供のころには、金メダルは一生に1度取れるだけで十分という了解があった。

2大会出場して・・・という発想はなかった。

新商品の新発売と同じ。

2大会連続で金!

とかって、競技選手にどこまでも新しい、これまでにないものを投影させている。

今回気になったこと。目標を達成できなかった選手のインタビューでは、繰り返し「気持ちを強く持って・・・」というコメント。

気持ちって弱気とか強気とかの強気の部分を言いたいのだろう。でも、強気の気持ちが欲しいのではなくって、揺れ動かない心が欲しいような気がする。

気持ちが強いという表現は勇ましく偉いように聞こえるけれど、古びた言葉に響く。昭和の臭い。今のアスリートは本当にそう思っているだろうか?

理性って人気ないね

強欲なのか、人としての境地の高みなのか?

金メダルを2つも3つも欲しいという気持ちをわたくしは知らない。欲しいと思わない。

あの金メダルを世界中の誰にでも1個配ったとする。するとおなじあの金メダルを欲しい気持ちは萎えるように思う。

子供の頃、運動会の徒競走。その頃は、1位がうらやましかった。1つの価値基準で認められることに心を揺さぶった。

今は全く興味はない。順位っていってもね~。

万が一1個金メダルを取るようなことがあったとする。でも、「他の人も欲しいだろうから2個はいらない。」と素直に思うし言うと思う。

理性と感情。

感情>理性 という人もいるし多いけど、理性>感情 でいることは大事だと思います。揺れないし。

適当と理性

適当って日本では嫌われます。本来の意味は適度な塩梅ということ。梅干しの塩加減は難しい。少ないとカビが生えるし、そうかといって、多くすると塩辛すぎて食えないし。

徹底的と適当的であれば、日本では徹底的がすばらしいと思われています。よね。

病的です、徹底的って。

徹底してる性格にうつ病発症者が多い。

うつ病の病の時代の日本で一時、というか今でも人気があるのが高田純次さん。散歩の番組今もやっているのでしょうか?

徹底的の反対の「適当」そのもの、というキャラで人気を博している高田純次さんは、見ていてラクだし笑えるしホッとします。

NHKの哲学の番組にもなぜか高田純次さんは出演されたことがある。本人も「なんで俺呼ばれたのかな?」という雰囲気で気取らない。

高田純次さん の芸風には微塵も理性を感じない。けれど、「適当でいいや・・・」ということが理性的に判断されているとすると、かなり正しいし、理性があると、モットモットとはなれません。

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