ホボ毎日のように安冨歩さんのyoutube動画を観てきた時期のある私が是非とも読んでおきたかった1冊です。
期待感と失望感の混在する中で、どのように紹介すれば良いか全く解が見いだせないのが正直なところでもあります。
隠蔽された空間を抜け出す
ヘビーな内容の本著を書き始めるには筆が止まって動かない。そこを突破してお見返して目が止まったところから。
・・空間に閉じ込められているにもかかわらず、
その世界を十分に広いと思わされ、
自由を抑圧されているというのに、何ものにも束縛されていないと
思わされているところが、
現在社会を生きる人間の苦悩の本質です。
安冨歩さんは本質を突き止めたい人だから強いメッセージ性があるとわかった。
本著が示したいことの全ての出発点はココにある。に違いない。その世界から意識が抜け出せていると、抜け出せていない状態がわかります。
わたくしもわかる側にあると思っています。何かわからないけれど違和感だけはある状態。そこから試行錯誤して何かのタイミングでわかることがある。
抜け出せていなかった自分がわかり、周囲の”中状況”や”大状況”も調べてようやくわかる、ということがあります。
大状況と中状況を再度後戻りして自分がわかる方法。
何かから抜け出せないというかよくわからないが「何かが違う」と感づく、感づいているならば、今の世の中に疑いを持つ人ならば読むべき1冊。
哲学的日本史論
ハイデガーの本が自宅になるような家庭で私は育ちました。だから哲学者には馴染みがないわけではない。
考えることを嫌う教育に染められている日本人には荷が重いかも。日本史であったり、立場主義について知りたくって手にとったのに、哲学の話しが続く。
面白い。
究極的な「人間とは何か?」を論ずるのが哲学と言う緻密で難解なアイデアだと私は思う。
若いころは哲学を”生きる思想を育む学問”だと思っていたけれど、今は「哲学はアイデア」の1形態だ、が正解という考えです。
非線形性の問題ということは初めて知った。なるほどと思った。ラッセルとヴィトゲンシュタインの論争のポイントと隔たりと安冨歩さんの現在の思想がつながってゆく。
安冨歩さん は言っていないけれど、日本史は自分史でなければ意味はない。と私は解釈した。歴史観を国家から一人の人間に取り戻す、そんな価値が本著にある気がしています。
家主義⇒立場主義
役(やく)とか局(きょく)に家、立場。過去の日本で生きたひとりひとりが、どのような価値観によって位置づけされ、本人はどのような人生観で生きていたのかを分析してゆく。
そのときに重要となるキーワード。それが、 役(やく)・局(きょく)・家・立場。
役や局や家はやがて脱亜入欧の掛け声で変わり立場となった。そのキーワードに重要な意味合いが込められていたからこそ、21世紀の日本になってもいまだにその言葉が意味を変えながらも使われているのですね。
家制度はもうほとんど壊滅寸前です。
今の高齢者たちがいなくなったら、なくなります。
上っ面ばかりの情報だけで納得している人は信じる必要はありません。
私は「なるほど、だから・・・通りで・・・」と納得感あり。そそられませんか?
立場主義も無くなる
本名を忘れたけれど、「青春」というのを始めて言い出したのは・・・という文章に若いころでくわして驚いたことが私にはあります。
どの時代のどなたにでも、早死にしなければ、青春は当たり前にあって当然と信じていた。
なのに、ソーした概念もなく、青春という意識もなく生きた時代があり、遠くない昔に、誰かが言いだし、青春が製造されて普及されたポイントが確かにあったと知ったからです。
ポジション=スタンス=立ち位置=立場=席。が無くなる。状況は真逆のベクトルで働いていた。
失われた30年。
では、何のために公共事業が行われたり、
いわゆるばらまきみたいなことがおこなわれたのかというと、
これはおそらく、
究極的には、
「人の立場を脅かさないようにするため」
だと思うのです。
蜃気楼を”あると錯覚している”と人は幸せになれません。立場という価値観が無くなるのだと知っていれば、「あれが立場なのでは?」と気づける。
本著を読み理解できる人であれば、無駄に蜃気楼を追うのを止めることだけは、できるのかもしれません。
安冨歩さんはご自身を「合理的な神秘主義」といっています。安冨歩さんのいう「神秘」を私は知らないけれど、たぶん、その神秘は解明されている。
宇宙のすべては伝承されていないし、そんなデータが仮にあっても、人間存在にとって価値がない。
人間の感覚でわかる範囲内であれば、おそらくの「神秘」は、初期仏教が地・水・火・風と解明しています。神秘でもなんでもないと解明しています。客観的事実によって解明されています。
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