病気になっても心が病気になってはいけない、とスマナサーラ長老はおっしゃります。聖者と病気
病気と書くと、「気」なので、心も病んでいるという意味があるように私は感じました。なので、病気を身体という物質のみで引き受ける、という意味を込めて「病体」としました。(個人的な見解です)
人体はもちろん物質ではないけれど、初期仏教では物質と同様な解釈で、あえて「物質」ということがあります。
かつての私は、病むと、その反応で落ち込むことがありました。大学生の頃に意識して変えたことが私にはあります。あまり体の体調に引きづられて落ち込むのは良くはない、と改心したのです。
それまでは、体温が38℃を超えると、高熱だ~ヤバイ、大変だ、となったけれど、熱があっても普段通りにするようにした。あえて元気モリモリな気分に変えた。
すると、高熱は下がらないけれど、さほど気にならない。熱は変わらないけれど、そんなに体が悪いような感じがしない。
気の持ちようだとそのとき知りました。
スマナサーラ長老のおっしゃる、体を病んでも、心を病まないということは、どういうことなのでしょうか?
正直良くわかりません。元気な気分でいることでもないし。ただ、病気の体を観察すること、とスマナサーラ長老はおっしゃっています。
私は腰痛持ち。
鈍い痛みになると、非常に苦しい。通勤での歩行が辛い、ということがたまにあります。腰痛になるとずっと腰全体が重く痛む、と思ってきたし感じてきました。
けれど、観察してみると、痛みって痛くなったり無くなったり、別なところが痛くなったり、収まったりとじっとしていません。
痛みに集中すると、実はモグラたたきのゲームのモグラのようにどこかに出てみて、引っ込んで、別な場所に出てきて収まる、ということがわかりました。
痛さって案外小さいし短い。
話が変わります。2週間前に大腸ポリープの切除をしました。この2年くらい毎年の好例行事のような感じです。
良性で1か所。
人にもよるのでしょうけれど、全く心配していません。だからといって原因と対策を考えていないのでもありません。
ストレスは日常的にはない。
だとすると、食習慣しか思い当たりません。
ちょっと、神秘的でイヤなんですが、先月、瞑想会でスマナサーラ長老にお会いしてから体調が良いです。
数年来のお腹の不調な痛みが少なくなって、無くなっています。最近は痛かった部分が今週は暖かい感じになっている。
生活習慣はあまり変わっていないけれど、よくわからないけれど、確かに、瞑想会の後から調子が良いです。
個人的な感触です。病いに効くような会ではありませんので、誤解のないように。別な原因が思い当たらない。ただの偶然なのかもしれません。
いずれにしろ、体が病気だ、ということは大したことではありません、とスマナサーラ長老はおっしゃっています。
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