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1年ぶりにスマナサーラ長老の法話を生で拝聴しました。非常に厳しく、わたくしに差し迫るような感触がありました。生命だから瞑想は辛い|スマナサーラ長老の初期仏教法話とQ&A(05 Mar 2023 北とぴあ)
慈悲の瞑想はしているしヴィパッサナー瞑想も毎日ではないけれどしている。そんなに悪くはないんではないか?と自分自身では思っていたのです。でも、
感情にまけていないかな?
と言われた。すべての問題点が透けて知られている。
法話に集まられた方々は、みなさん、ご自分ごととして聞かれたのだと推測します。
わたくしには、ダイレクトに「オレのことを言っているんだな」という、突き刺さるようにして長老のお言葉が入ってきました。
しっかりとアイコンタクトをとって、真正面だと私に確認させて、おはなしされたのがわかりました。
この感覚は昨年とおなじ。
昨年の初心者指導では、「そんなものですかね・・・」と言われました。歩く瞑想の仕方の集中力が足りていない、ということ。
昨日は、「お前は感情の奴隷になっている。」と言われました。いまの自分の問題点のすべて。なにも進化していないし人格向上もしていない。
してはいけないがしてしまうこと。したいけれど、なかなかやれないこと。
そうしたことをリストアップして、自分が感情の奴隷になっているありさまをしっかり確認しなさい、と言われました。
慈悲の瞑想もしているしヴィパッサナー瞑想もしているから、それで人生OK。
そんな感覚だったわたくしにガツンとげんこつが飛んできたような感覚。
瞑想を免罪符にして生きていたのです。瞑想と生き方を分けていた。
世の中で普通に生きることと仏教的に生きることは正反対。
すこし仏教に慣れ親しむと、世間とは違った生き方をしていると自賛する。おごり。
「感情の奴隷」が、やっとわたくしの問題として立ち上がった。ともおもいます。
太刀打ちできないような感覚でいます、いま。
負けてきてばかりだと思い知る。これからも負けるのだろうか?
ひとりきりでは決して知ることのできないことを自主瞑想会のスマナサーラ長老の法話で知ることができました。
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