人生は独力で果たせることはありません。
「孤独」と言っても、たった一人で何もかもを成立させることとは違います。
もっとも危ういのはたぶん、どこにも誰ともつながりがなく、助け手のいるところも知らずに、ただ、マン喫のようなところでこっそり過ごすこと。
たとえば、もやい。
こうした人に助けを求める。とにかく生き延びるためにご自分の命をつなぐことだけ1つだけで良い。
俗世間でなんとか生活できるようにもってゆくことが、何よりも優先する、窮地、という場面はあります。
瞑想なんかやっている場合ではありません。善行為だの初期仏教だのを言っている時ではない、という窮地というものが人生にはある。
ホントの窮地ではなく、でも私にとっての窮地。私の場合は仕事が無くなったことがあります。無くなる前の仕事では、休みにも自宅に仕事を持ち帰っていました。
欲ばかりの、生産性ばかり求めてくる元請け。ただただ仕事に追われるだけの日々。
ソコから仕事が無くなる不景気に有って、ツテもなくなりハローワークに通ったけれど、なかなか職がない。
やっと、面接のキャンセルがあったから面接するんだという、前置きを受けてのバイトの面接。ソコでやっと得たバイトの仕事は初めての職種でした。
あの時期に「ヴィパッサナー瞑想がいい・・」なんで聞いたって、できるわけはなかった。仕事を覚えて、できるようになることだけで精一杯。
自販機で飲み物を買う余裕がない。コンビニでおにぎりを買うお金がない。水筒を買って出勤前に準備をしてもってゆく。
こうしたことは、「窮地」でもなんでもない、という人はいるでしょう。毎月200時間以上の残業をすることも「窮地」とは言わないのかもしれない。
けれども、生きていくことだけに必死にならざるおえず、結果として精神的に視野が狭くなり、孤立化することはあって、それは「窮地に追い込まれている」のだと思います。
そんな時には、自分が孤立化していることがわかりません。それが当たり前だと感じているし、その状況以外の選択肢が思い浮かばない。
もしも、私が、あなたが、今後「窮地」に追い込まれたならば、瞑想をさておき、生き延びることだけ、どのような手も使って、助けを叫んで得て、借りる。
ソーしなければならないのです。
孤立しても自分で自己責任で!という人が増えました。
片や、みんなで助け合おう、という人々も実は増えつつあるのです。
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