前科とラベリングと非差別と
弱ものが切り捨てられている。
今は普通に生きられていても、いつ弾き飛ばされるか知れない世界。どんどん生きづらい日本。そんな日本人への共感を動機として生まれた映画。
(昨日、飯田橋ギンレイホールで上映していたので感想を記します。1週間ほど上映されるようです、かなり人気の観客席満員の映画館でしたです、ハイ。)
普通の家庭に生まれると、日本には身分制度はない気がして生きている。子供の頃にはバスには車掌がいて運賃をその場で支払った。
電車の駅には改札に駅員が座ってキップを手渡しし切って返してくれていた。バズでも電車でも他人同士が隣になり会話を普通にしていた。ほんの数十年前までは。
無言社会へ変化し続けたから、どこの誰とも知れない隣同士でも屈託なく陽気に和ませる”寅さん”映画に、戦後の人情深さを日本人はあこがれ懐かしんだ。
前科があるとできないことは多い。警備員になることはできない。履歴書というもの自体に差別の色はあるからだろう。
「あの人は・・・だってさ・・」と噂、本人欠席の裁判をする。すると、人は、こころの中の判決を有効化し人を先入感・偏見でみる。
ゴシップネタでウサを晴らすとは差別感そのものだ。優越感は差別感とリンクしている。
西川美知監督作品に興味深々
挿入音楽で感動させられ泣かされる映画は良くある。映画のハズなのに、映画ではなく音楽の世界。映画の原型はトーキーの前のサイレントだった。音声すべてがなかった。
映画”すばらしき世界”で印象に残った凄いカット。それは、音楽ではなく、映像と役者の演技そのもので表現して見せたところにある。時流へのアンチテーゼなのか?
介護施設で軽い障害のある同僚から、台風で散る前のコスモスの花を、鼻を拭いてくれたお礼に「あなたのために摘んだよ!」と差し出され、受け取った涙の三上。
その花を握りしめながら、暴風雨の吹き込む部屋で両目を開けて亡くなる三上。
その2つのカットよりも、映像表現でしか表せない凄みのあるカットが1つある。
この映画の表現力のすばらしさがもっとも顕著で、普通には見過ごされ評価されないであろうカット。
三上がスーパーで万引きを疑われる。その前でのレジでのスローな何とも言えないゆがんだ空気感。この言葉でも音楽でも表現できない、ある空気感・予感・溜まった余韻。
万引きをしたのか、しなかったのか、わからない。でも何かが溜まっている。
三上には溜まっていない。
スーパーの店長は、店を出た三上を呼び止め、万引きを疑った。三上は潔白を証明してみせる。
溜まってしまったのは店の側だった。映画を見ている自分まで、三上を疑ってしまっていることが恥ずかしい。
店の側とは世間の側なのに違いない。
何かが溜まった、どこかで・・・と表現した。この映画の全てはこのカットにある、と私には思える。
時代へのアンチテーゼ。西川美和氏、渾身の映画人の1カット。
蛇イチゴ・ゆれる・ディアドクター・夢売るふたり・永い言い訳。西川美和監督作品が観たくなっている。
怒る・大声で怒鳴る・叫ばれても揺さぶられない
大きくて自信にあふれる強い言動には従いたくなる引力がある。
幼いころ離れ離れとなった母親を三上は探し続けている。テレビで探す企画。その打ち合わせの飲み会のあと。
一人のサラリーマンがチンピラに絡まれている。弱い者を助けたいしあいつらには負けない自信が三上にあった。
チンピラと三上のケンカが始まる。テレビディレクター(長澤まさみ)がアシスタントに撮影を命じる。
チンピラと三上のケンカがエスカレートし傷害事件化し過激になると、アシスタント(仲野太賀)はその場から途中で怯え逃げる。
テレビディレクター(長澤まさみ)が、その場から逃げた作家志望のアシスタントに追いつき言い放つ。
「腰抜けで中途半端なお前の逃げ腰は、だれも救わないんだ!」と切り捨てた。一瞬正しい。
しかし、逃げる、やり過ごすことの大切さを映画後半で評価してみせてゆく。
平等感と少し頑張ってみた本人と
ラストで薄く雲かかった青空が映し出された。心臓の持病で急逝した三上(役所広司)の生き方も素晴らしかった、と言いたかったのだと私は思う。
人を殺し、何度も同じような激情と人を痛めつける野蛮性。であっても、普通の人々には感じ取れない繊細な感性をもって弱い人の側に立ち続けた人生に「すばらしさ」はない、と断言して良いのか?
という西川美和監督の問いが見る者に突きつけられている。
あなたは差別をしていないのか?
スーパーの店長のごとくに、噂話を信じ安易に人をラベリングし誤った偏見で人をみていないのか?
生い立ちの不幸・自分の性格・感情の起伏・こみあげる正義感・抑えられない怒りを、一時抑えてみようとして抑えた人がいた。
そのたった1つだけの、でも懸命だった、自分への戦いの勝利。それは、すばらしき世界の1つに違いない。
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