17才の時に今話題の統一教会の合宿に参加したことがあります。親にも打ち明けず、友達にも言わずに一人で「参加してみたい!」と思った。
先週のテレビ番組では、入信した女性の再現ドラマが放送されました。非常に細かい部分まで聞き取り事実に忠実だと感心しながら途中まで見ました。
とっても純粋な普通に真面目な女性と男性が参加していた。何か暗い感じではなく、極々普通の清楚な愛らしい女性がいたのが印象に残ります。
私が興味を持ったのはたぶん、幼稚園がキリスト教系で日曜日に教会があって、時々参加していたこと。そして卒園の記念に新約聖書を頂いたことが大きいと思います。
何か悩み事があると、自分の部屋にはその新約聖書くらいしかないんで、読む。熱心ではないけれど、ソコがキリスト教に興味を感じた最初です。
11才くらいから真理というものに興味がありました。人間とは何か?とか 生きるとはどういうことなのか? ということが知りたい子供だったのです。
12才くらいになると、両親があからさまに不仲になる家庭で育ちます。父が精神的に病んだ少し前から家庭がおかしくなりました。
一時サラリーマンの父が病気で長期休暇を取っていて、その後も、父の病気というか性格と母の性格がぶつかり合って、口論の絶えない家になった。
そんなことが悩みと言えば悩みだったのだと思います。
「真理かもしれない・・」と思って統一教会の合宿に参加したけれど、参加費用に比べて食事がかなり質素だったことが印象に残りました。
「参加費で儲けようとしていないか?」と感じたのです。真理の教えの学びの会であれば、ソーはならないだろう、と考えたのです。
世話役のスタッフと講師の先生。
講師の先生が原理について黒板の前の教壇で熱心に講義のようにして教えを語ります。聞いている参加者が熱のこもった講義に感動している。声をからし熱弁している様は感情的。
私は、熱のこもった講義をしている先生の熱心さや情熱と、語られている教えの真理性は関係が無いよね、と冷めた目で見ていました。
一緒に参加した同世代の男女とはリクリエーションをし楽しく過ごしました。そのうちの何人が入信したのかはわかりません。
なぜ? あの時に入信しようとしなかったのか?
よく思い出せないけれど、簡単に言うと「真理ではない。」と判断したからです。
真理というものは感情ではない部分にある、と考えていました。それほど困っていなかったとも言えます。
その後、イエスの御霊協会で洗礼を受け、さらにモルモン教での洗礼を受け、どちらにも入信しませんでした。
なにか入門すると、何かがわかったり、自分が変わるかな?と試したかったのです。試してみて、どこもかしこも、普通に人間臭さ過ぎた。
真理を預かっている人々のように見えなかった。
ソコで孤独を選ぶ。寄り添わない。
自分でキリスト教を探求し、賀川豊彦や東大学長であった矢内原忠雄の本を古本屋で見つけて読む。そのうちに無教会主義というものがあると知る。
内村鑑三の求安録を読んでいたのは社会人になってから。意を決して、無教会主義の教会に足を運んだ。
でも、1回きりで終わり。
宗教とか真理というものは、グループで知ってゆくのではない。ひとりで探し当て、見つけたら一人で実践するものなのだと考えたからです。
そして、思いつめない、適当な性格が良かったのだと思うのです。
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