老いて諦める連続
日本テーラワーダ仏教協会のアルボムッレ・スマナサーラ長老の本を読んで、知りたい、知りたかったことが、如実に語られていて興奮したことがある。
人間でどうようものなのか、わかった人が語る凄み。感情はないので、ダイレクトに本質に向かう。集中力が半端ない。
ライブドアの前身、オンザエッジでCEOをしていた小飼弾さんとの対談、養老孟司さんとの対談、心理学者の最高峰の学者との対談はスリリング。
アンチエイジング全盛の今、老いをそのままにしながらも楽しく生きることについてが本書で、 小飼弾さん が「神」といっているアルボムッレ・スマナサーラ長老がやさしく語る。
無常ということは、人間は時々刻々変化しているということ。死に向かって生きている。人間に人体って30歳辺りで大きく変わります。
そして。41歳の厄年近辺でも目まぐるしい。ヘタをすると病んで死ぬ、そんな体感が私にはありました。そこを乗り越えて、できることと大変でもできること、やると腰砕けになることがわかってきます。
無理はしない。いたわる。歩き方も変える。膝が痛む。整形外科でも治らない。ほぐす、温める。若いようには戻らないと悟る。
ソコからできることはする。旅行に出れば、町中を散策したくなる。10kmくらい歩くけれど、まだ、行けるとわかる。
眼がすごく良くなった
本書は瞑想については書かれていないので、俗世間に向けた本。スマナサーラ長老の本は、もちろん俗世間の普通の人に書かれているけれど、内容はある程度選ばれていることが多いです。
出世間と俗世間。
大脳と原始脳。
俗世間は原始脳の作り出す世界であって閉じている檻。
出世間とは出家側の世界で、貪瞋痴の世間から離れて、大脳を活性化させて原始脳を停止している世界。
無理なく、読み手を、俗世間でありながらの、出世間へ誘う。ほとんどの人は、貪瞋痴の世界に浸って、自分の在り方を疑うことができない。
スマナサーラ長老の誘いに従って、ヴィパッサナー瞑想をしていて気づいたことは、最近、目が良くなったこと。
たぶん、瞑想によって眼に問題のあった私は、何かが解きほぐれた。問題が少なくなったので目が良くなったのだと思います。
食べ物の現実
瞑想していると、それまで考えなかったようなことがわかってきます。料理とか食事ってかなりイメージ化されていること。
私は料理するし、ダシとかもとっておいしくする方法を知っています。煮干しや昆布でじっくり水出ししてから料理するとうまい。
きれいにデコレートされたお作りでも西洋料理でも、テーブルで目の前にすると心が躍る嬉しい。
でも、そんな料理であったり、見た目の美しい料理って幻想だナ、と最近気づきました。
見ているときれいで美しいおいしい食べ物って、食べて飲みこんでいても、そのイメージはそのまま、ということを。
サラダのブロッコリーを食べると、その形のまま胃袋に入っていると錯覚していた。
現実には、食べ物はものすごく早く、咀嚼されバラバラになって、跡形もなくなって溶液化して跡形もなく消える。
はかなくって、痛みやすくって弱い生き物だけが、だから食べ物になる。ヒンシュク承知で表現すると、すべての美味しい食べ物は、人体の口の中で即ゲロ化している。
これが現実。
心だけは成長できる
身もふたもないことを言いましたけど、心だけは一生涯高みへと変化し続けることができます。記憶力でも計算力でも発想力でも経営力でも財力でも死ぬと無意味になる。
雲散霧消する。
けれど、こころだけは、ソーならない。こころは人体を抜けても存在するしね。
こころを成長させることと、世のいう自己実現とか自分探しって全くベクトルが異なります。心の成長は出世間に出る部分。
自己実現とか自分探しって 俗世間=原始脳の領域です。
ヴィパッサナー瞑想しておくと、ある程度心が成長すると、その分、転生では良いところに行ける、必ず。
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