誰かの犠牲になることについて

ヴィパッサナー

いつも当ブログにご訪問頂きありがとうございます。今日は投稿を諦めかけていましたけれど、いまから書き始めます。

たとえば、誰かを助けることで自分が巻き沿いを受けることは、心優しい美談なのだとわたくしはこれまで考えてきました。

たとえば、三浦綾子さんの塩苅峠という小説に出てくる主人公の男性。電車の乗員を助けるために自らがブレーキのようになって身を投じで亡くなる。

こうしたことは素晴らしいことなのだと思っていました。

ところが宇宙法則からみると、かなりいけないらしい。

してはいけないようなのです。

なぜなのか、よくわかりません。でも、何かの執着心ではあるように感じます。動機はご本人にしか知れないけれど、空っぽになるベクトルというよりも、がっつりつかみに行ってしまった。

わたくしは、キリスト教をすこしまじめに信じていた時期があります。ひとりキリスト教のような感じで。自殺願望はないけれど、自己犠牲願望が確かにあった時期がある。

初期仏教では慈しむというけれど、キリスト教では博愛といいます。どこかで似ている。と、いままで思っていました。

けれど、180°くらい違うんではないかな?

と昨日あたりから考え方を変える必要を感じ、思索しています。

慈しみの瞑想はまず、「わたくしが幸せでありますように」と始まります。最初、この慈しみの瞑想で一番わたくしが引っかかったのは、このわたくしが幸せでありますようにでした。

なぜなのか?

というと、自己犠牲するほうが立派な生き方だと錯覚していたからです。その錯覚に昨日気づいたのです。

なぜ? 錯覚していたのか?

というと、キリスト教の影響があった。から。

初期仏教でいう、「わたくしが幸せでありますように」のわたくしをもっともっと慈しまなければマズいと気づきました。

自己犠牲はかなりヤバイらしいのです。非常にいけないらしいのです。

自分を無くす、空っぽになるのならいい。

少なくとも、「わたくしが幸せである」の中には一辺も、犠牲者になって良いというものは含まれていません。

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