SNSの落とし穴=問題は何か?
わたくしはSNSが正直好きではありません。やはり、人と人は実際に顔も声も素性もわかった上でないとコミュニケーションが育まれないと考えているからです。(前回の続きです。前回の記事から読まれるとわかりやすいです。)
どんな顔で表情で、息の仕方で、声で、しぐさで、といった信号を受信して、生データがあるからこそ初めて、相手への適切な対応の仕方が育まれる。理解しながら積み重ねて重ねて重ねてやっと少し信頼感が交互に宿り理解し合える。
通信が発達し、写真や文字で双方向のやり取りができて便利になったけれど、お手軽にコミュニケーションできることで、生のコミュニケーションが希薄化している。
何度も実際に会って話しをするから、少しづつ、「この人のこうしたところは、こうゆうことなんだな・・」とわかる。
新宿御苑で写真の撮影を止めてしまった彼女たちは、「待ってるから撮ってくださいね。」という意図がわからない。(もしかすると、撮影が長引くんで、とりあえず私をスルーしてもらいたかったのかもしれません)
なぜなのか?
「この人のこうしたところは、こうゆうことなんだな・・」とわかる。その経験が少ないからです、たぶん。写真を学んでいるならなおさらに、強引にでも撮影しなければならない。自分がしたいことを最優先にしないとはかどりません。
SNSの副作用=弊害として、「この人のこうしたところは、こうゆうことなんだな・・」とわかる。体験が少なくなるんで、人の気持ちを理解する能力が下がる。
人の所作振る舞いの意味がわからないと不安にある回数は増えます確実に。SNS漬けの人に、深刻な不安感ってないんでしょうかね。増えますよ、「得体のしれない人ばかり」と思うことが増える不安感が確実に。
SNSで表現するために外に出る!
解決策としては、なるべく色々な人と接して、生のコミュニケーションを持ち、失敗をしながかも成功体験をつみ重ねて人間力=他人の心理を理解する力を上げることです。
SNSが好きではない私は、その一方で、ブログを運営してきました。矛盾しているけれど、時流に乗ることで雇われない道が開ける、開かれると思ってのことです。最近Twitterを遅ればせながら始めました。
ずっとやりたくなかった。
なぜか?
イケハヤさんも菅家伸さんもTwitterを推奨しているけれど、したいと考えなかったのに、なぜか?
というと、テーラワーダ仏教教会の会報で来年度の会の方針に関するお知らせがあって、そこでまずはじめに、SNSを取り入れてゆくこと、とスマナサーラ長老が宣言していたからです。
意外な感じ。でも、大聖者の長老が、貪瞋痴の世界で作り上げられたSNSを非常に大事だ!とおっしゃっている。少しおおげさな表現ですけれど、この活動方針を読んで、雷に打たれたほどの衝撃がありました。そしてSNS嫌いを克服しようと思ったからです。
SNSがなぜ重要なのか?核心はわかりません。でも解説している人から学ぶことはできます!
スマナサーラ長老のyoutube動画を私が初めて拝見したのは2018年頃です。協会のホームページが刷新されたのもその頃だったと記憶しています。
当時は私は会員ではありません。いまでも、積極的な会員ではない。内情はしらない。協会のYouTube動画は人気YouTubeと比較するとけっしてバズることはない。
けれど、視聴回数も有名YouTuberのソレに遠く及んでいないと失礼ながら思っていますけれど、SNSがこれから必須の手段になる。とおっしゃっている。誰あろう長老が言っている。初めて知りました。
ブログには集客力はありません。でも自由にデザインしたり長い文章を書くことはできます。Twitterなどの集客力ある別のSNSを融合することで、ブログに確かな力が育まれる。
SNSのどれか1つを、必ずやらなければならない。そしてブログをするのであれば、Twitterとドッキングする。
出世間の覚者の言うことに誤りはないからです。具体的な方法は成功者から学ぶ。イケハヤさんや菅家伸さんから学ぶのが最も賢明です。
コメント