いつも当ブログにご訪問頂きありがとうございます。瞑想はひとりでするもので、集まって瞑想する瞑想会ってどんな意義があるのか?とずっと思ってきました。
瞑想の進捗状況、いまのこころの状態を健康診断のように診られる。そんな感触がスマナサーラ長老の法話にありました。
人間が活動するための、起動のエネルギーは感情で作られている。その感情は貪瞋痴。なにが貪瞋痴で、どれは理性的なことなのか?
悪い事と知りながらやりたいことと、良い事と知りながらしたくないことをリストアップする。ひとに見せなくって良いから吐き出す。
「するなよ!」と言われてもやりたいこと。「これをやると良いことになる」とわかりつつ、やりたくはないこと。
慈悲の瞑想もヴィパッサナー瞑想も良い事と知りながらしたくないこと。まったくしたことがない人と比べればしているとはいえる。
けれど、ぜんぜん足りないんじゃないか?
瞑想会の法話でソー思いました。
感情と戦う。戦いが瞑想。なのだとスマナサーラ長老はおっしゃりました。
このまま感情に支配されていると、この世の後には地獄のようなところになるかもしれない、と言われました。
自主瞑想会は初めて。自宅とは違って、周りでも瞑想されている。気になる。空間の広さなども違う。
わたくしは歩く瞑想をしました。1時間半くらいでしょうか。自宅でひとりで瞑想するよりも時間が短く感じました。
けれど、途中で倒れるんではないか? というほどふらつきました。睡魔が何度もやってきて、気を失いそうな感じ。
とにかく、普段ないような眠気。いや、ふだんからある眠気なのかもしれない。
感情は、歩く瞑想が嫌いなんだとわかりました。今日は感情に負けたような感触。
瞑想はひとりでするもので、集まって瞑想する瞑想会ってどんな意義があるのか?とずっと思ってきました。
瞑想会って、果し合い(=決闘=煩悩との闘い)の成果、戦績を報告するような真剣勝負の場なのだと思いました。煩悩との闘いの成果、いまの段階を、スマナサーラ長老は瞬時に見抜かれている。
いまの自分はかなり情けない状況だと知りました。
いまよりも感情に打ち勝って、また、果し合いの瞑想会に参加したいと考えています。
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