政治や国の政策で生活が楽になることで、自分の心は清らかになりません。
ただし、生活に余裕が生まれると、人によっては、ヴィパッサナー瞑想をする時間が持てる場合もあるでしょう。
比丘を支えるのは在家の普通の人々です。だから、在家の生活がしっかりと保たれることも大切だと個人的には思います。
やさしさがあってウソがない政党。隠し立てしない人々。
こうした点をしっかりと調べて、吟味して候補者に投票する。
どちらの候補者もダメだ、という選挙が無かったわけではありませんけれど、投票しないと現状維持ないしは今の延長線上の政治を支持したことになります。
棄権する、投票しないことは、現状にノーという態度になりません。
その政党や候補者にノーとする具体的な行動は、あなたが好きでもない対立候補に投票することです。
必ず投票する、コーした投票行動の効果は、先進国では学校教育で学ぶ国(例:ノルウエー)もあります。
わたくしは、小学生か中学生の社会科見学で国会議事堂に行ったことを今でもよく覚えています。どんな立ち位置で当時の現役の議員さんから説明を受けたかも覚えています。
私が政治に興味を持ったのはソコが原点。
中学高校の頃から各政党について調べていたと思います。当時東京の杉並区に住んでおり、小学校の授業でも原水爆禁止運動の発祥した区だと教えられました。
クラスの周りの友達が私のように政党を調べてはいなかったと推測します。では、なぜ?私は政治に興味があったのか?今でも気になっているのか?
というと、父の思いがあった、と推測しています。
私が生まれる当時に政治に興味があって何かをしていたらしい。全くソーしたことは生前に本人から聞いたことはないけれど、本を読んでいて少しづつ知りました。
正義に向けた現状打破、怒り。
ソコに私は引っ張られて生まれたように感じています。私の業(カルマ)。
正義感や怒りが自分を悪くしてしまう。のかもしれないな・・・。
30代前半で孤独に思索している中で、その心の問題に気づいて「執着ってどうなのか?」と考えていた時に知ったのが日本の密教系の仏教でした。
外ばかりに問題を探し、そこを解決することだけを考えていた自分の内面にこそ問題がある。
そうした示唆を仏教から知り、180℃認識の仕方が変わります。
「世界」とは、自分の認識した世界でしかない。認識の仕方が変わればその「世界」自体が変わる。
と。
究極的には政治はあなたの、私の心を良くする要素は1点もありません。
未来永劫のループの中にある。バグのあるプログラムの中にある。
でも政治が気になっている。
もしかすると、私のカルマで業で、引っかかっているだけなのかもしれない。
けれど、それでも、ループの中の一コマで人々が少しは幸せを実感できるように動くことはできて、それは良いことのようにも思うのです。
私の所属している会社は経団連で有名な会社の1つ。
コロナ渦でも利益が高まって、個人的にも実入りが良い、ウッハウハな状態。でも、政治のスタンスは自分の立ち位置とは無関係だと私はずっと今まで考えてきました。
自分の実入りが減っても、みんなが幸せになるんであれば、そっちを選びたい。
だから、こっそり投票するのです。
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