今日も当ブログに訪問いただきまして、ありがとうございます。きのう今日と関東周辺は暖かい日となっています。みなさんいかがお過ごしでしょうか?
きな臭い世の中にあって、ブログを更新でき、おだやかな日を過ごせていることを「ありがたいなぁ」と思いながら書きはじめます。
前世や来世って信じられませんよね?
わたくしも、新卒で就職したしごとがコンピューターのプログラム開発だったので、まったく信じていませんでした。

「霊とかのエネルギーがあったならば、半導体の微弱な電気信号を変えることは簡単だロー。プログラムが正常に機能しているということは、霊などのエネルギーはないことを証明しているんだよね。」と考えていました。
20代から30代までは、しごと以外の関心事は世界の情勢や日本の問題。そして会社を辞めました。世界や日本の問題はわかるけれど、ドーにもラチが開かない。
で、だんだんと自分の本性のほうが大事だと考え方がかわったのが32歳。トンデモ本も読みながらも核心を突いた本にもであった。
40代後半からは初期仏教に落ち着きます。森羅万象が無常なのではないか?といまはすこし頭ではわかってきました。(ホントにはわかりません。認識度は段階があります。4段階。1段目にもとどいていません。)
無常というものは日本で伝わる”諸行無常”ではありません。認識能力についての違いは、日本で伝わる”諸行無常”は”貪瞋痴”の世界。無常の認識能力はソコにはありません。
わたくしには無常(認識能力はありません)はわかりません。でも、「無常なんじゃないか?」と検証するように日々過ごしています。
すこし瞑想して見方がかわった。
見方がかわった1つは、自分はいつも無常だし、会社の同僚・上司・後輩社員もいつでも無常だな、ということです。
定まった性格やら魂など固定した人格・性格などはない。という程度はわかりかけています。(言霊ってありません。”虹色のカラス”ってたぶん今いませんしね)
もちろん似たものはその人にはあって、同じような価値観を持ち合わせています。けれど、変わらないのではなく日々時時刻刻に違う変わる。

1日でもどんどんと感情は揺れ動いているし、いまの彼は昨日の彼では全くない、という程度のことはわかるようになってきました。
「ほんとうの自分」や「真我」といったことに引っ掛かるとわかりません。以前のわたくしはソーでしたから。
江戸時代までの日本では、「生き通し」といって、生き返ることは普通に信じられていたようです。(初期仏教の見解とはもちろん違います)
初期仏教に接するまえには、臨死体験、死後の世界に関する本を読んでいて、魂といったものを信じていた時期があります。
「人間って着ぐるみで生きているんだな」と考えていました。

中身と外側。外側が人体で脳で肉体。人体で脳で肉体は「着ぐるみ」とおんなじで大した本質ではない、と考えていました。いまもほぼソーした考え方です。
(魂論のつまらなさは、「では、人体っていらなくないかい?」ということに問いもせず、気づいていないらしいトコです。)
すると、人間は死んでもなにかを引き継いでいるとわかる。エネルギー保存の法則ってありますしね。
(たぶん、物理学の法則と違って、初期仏教ではエネルギーの大きさは変わると言っていると推測します。回転を繰り返して雪だるまのようになるでしょう。)
なぜ? こんなお話しをしているのかというと、信心で「前世」とココでは言っているのではないからです。わたくしは「ホント」にしか興味関心がありません。間違いに気づいたら平気で捨てる性分。
ヴィパッサナー瞑想をしていると現世では体験していなかったような映像が浮かぶことがたまにあります。かなり恐ろしい。スマナサーラ長老は「ヴィパッサナー瞑想で過去生をみることがある・・」とおっしゃっています。
前世を覚えている人がたまにいます。赤ちゃん。もしかすると、あなたもわたくしも生まれたばかりの頃には覚えていたのかもしれません。
最近興味をもっていることは「生まれたということは最近死んだ、ということだから・・」と、ついでのように何気なくスマナサーラ長老がおっしゃっていたことです。
今朝起き掛けに「なんでオレ、前世を覚えていないんだ?」とフトおもった。
記憶は肉体に帰属しているからかな? でも性格(こころ)は引きつがれる。性格って肉体から分離しているの?
で、正解をさがすとありました。テーラワーダ仏教協会のアルボムッレ・スマナサーラ長老がYoutubeで説明なさっています。
お坊さんに質問】輪廻と記憶――なぜ前世のことを覚えていないのか? スマナサーラ長老の初期仏教Q&A|ブッダの智慧で答えます(一問一答)
前世の記憶は肉体にあったから。だから覚えてない。
ただし、こころに必要なものは忘れない。
記憶には2種類ある。
命を維持するために必要な記憶。たとえば、学校・大学で学んだこと。コーしたものは年をとるとすっかり忘れます。肉体依存の記憶だから。
もう1つは、こころに必要な記憶。「嫉妬・怒り」というのは肉体依存ではありません。たとえば、12歳であるひとを恨んだとしても63歳になっても「同じ恨み」を抱えて生きることができます。
肉体は3か月で細胞が入れ替わるので、12歳のそのひとの肉体と63歳のその人の肉体はまったくの別物です。けれど、「同じ恨み」を感じることができます。
認知症になってしまっても「同じ恨み」は覚えている。とスマナサーラ長老はおっしゃります。
こころだけに依存するデータがあって、こころと一緒に回転するとデータもコピーしてコピーして持ってゆく。
こころの寿命は瞬間。

スマナサーラ長老は「いつでも人間のこころは”ゼロ歳”です。」とおっしゃっています。信じられませんよね、でもソーらしい。
貪瞋痴をエネルギーとして、次のエネルギーを作らなくてはならない。そのためにはデータをコピーすることになるのです。
このデータをコピーする状態を超えると過去世や前世がわかる。
無執着の智慧をつくって、それからものごとを観察する。そして流れをみると、「こうゆう流れだな」とわかるようになるんだそうです。
すくなくとも「一回きりの人生だから好きなように生きよう!」というほど甘くはない。
苦しい時期があるのが人生。そして、非常に壊れやすいのが心。簡単にこころは壊れます。こわれた。すると、たぶん、どんどん苦しさが雪だるまのように大きくなる。
ソーならない方法があるんです。
生きているうちにすこしでもイイから、苦しさを当然のこととして平静に受け止め、淡々と生きられるように変えておく。
自分のこころの持ちよう以外にたいした大切なことはこの世の中にありません。だって死ぬのですから。
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